高鍋図書館、高鍋町の町並み (高鍋町立 高鍋図書館、火産霊神社 (ほむすび神社)、舞鶴城城堀緑地公園、高鍋城の濠 (ほり)、最後の連合艦隊司令長官 小沢治三郎の生家、宮田川の支流、柿原政一郎の像、明倫堂書庫、秋月毅堂書庫、秋月佐都夫 邸にあった潜り戸 (くぐりど)、高鍋町消防団 第5部機庫、めいりん児童クラブ)  (宮崎県 児湯郡 高鍋町 南高鍋、高鍋町 (たかなべまち))







<標高、位置>  高鍋町立 高鍋図書館は
標高 数 m
 北緯32度07分27秒  東経131度30分22秒

<標高、位置>  小沢治三郎 (最後の連合艦隊司令長官)の生家は
標高 数 m
 北緯32度07分26秒  東経131度30分30秒

<標高、位置>  火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)は
標高 数 m
 北緯32度07分30秒  東経131度30分27秒

<標高、位置>  八坂神社は
標高 数 m
 北緯32度07分26秒  東経131度30分35秒

<標高、位置>  舞鶴城城堀緑地公園は
標高 数 m
 北緯32度07分20秒  東経131度30分17秒

<標高、位置>  高鍋城(舞鶴城)の本丸跡は
標高 約50 m
 北緯32度07分22秒  東経131度30分04秒

<標高、位置>  舞鶴城の敷地内にある高鍋町歴史総合資料館は
標高 約10 m
 北緯32度07分20秒  東経131度30分09秒

<標高、位置>  宮崎県立 高鍋農業高校は
標高 数 m
 北緯32度07分25秒  東経131度30分15秒


  「高鍋町立 高鍋図書館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 南高鍋 551 にあります。
明倫堂書庫、秋月毅堂書庫、秋月左都夫 邸にあった潜り戸 (くぐりど)、柿原政一郎の胸像、明倫桜などが敷地内 (しきちない)にあります。 蔵書数は約60000冊です。
「明倫堂書庫」の説明板から、
旧高鍋藩の学校 明倫堂の書庫を正幸会が買い取り昭和29年当所に移転復原して町に寄付したもので明倫堂の図書1万6000冊を収納している。
「秋月毅堂書庫」の説明板から、
 高鍋町筏出身、元オーストリヤ大使 秋月左都夫 (号は毅堂)の書庫を正幸会が買い取り昭和29年移転し高鍋町に寄付したもので同家及 (およ)び諸家の図書を収納している。
「明倫桜」の説明板から、
 昔から明倫堂にあった桜でオオシマザクラ系のサトサクラの1品種。 花が美しく、ちりぎわのよい桜です。 同じ種類のものが舞鶴公園にもあります。

 「宮田川」は茶臼原 (ちゃうすばる)付近を源流として、東へ流れ古港で日向灘 (太平洋)に注 (そそ)いでいます。 延長 約8 km です。 宮田川の両側に高鍋湿原があります。 舞鶴城 (まいづるじょう)の東側も流れていて外堀の役目をしていました。

 「火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 高鍋町 (たかなべまち) 608 にあります。

 「八坂神社」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 高鍋町 (たかなべまち) 528 にあります。

 「最後の連合艦隊司令長官であった小沢治三郎 (小澤治三郎)の生家」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 高鍋町 (たかなべまち) にあります。
1886年 (明治19年)10月2日に生まれ、1966年 (昭和41年)11月9日に80歳で亡 (な)くなりました。 最終階級は海軍中将で、第31代目の最後の連合艦隊司令長官を勤めました。 宮崎県 児湯郡 高鍋町で生まれました。 海軍兵学校第37期生です。 開戦の時に陸軍と共同してマレー半島攻略に貢献 (こうけん)しました。 マリアナ沖海戦で小沢が考えたのは「アウトレンジ戦法」です。 これは日本の艦載機の航続距離がアメリカのより長いことを利用して、敵空母の飛行甲板 (かんぱん)を使用不能にした後に、前衛部隊を突入させるという戦法です。 しかし、艦載機の搭乗員の腕前が訓練不足のため低く失敗しました。 レイテ沖に向かう栗田健男 中将の第2艦隊の支援をして、敵機動部隊の囮役 (おとりやく)を与えられました。 昭和19年11月18日海軍大学校長になりました。 昭和19年5月29日に海軍総隊司令長官 兼 連合艦隊司令長官、海上護衛司令長官になりました。 海軍大臣・米内光政 大将から大将へ昇進するように要請されましたが断 (ことわ)りました。 戦後には現在の日本郷友連盟の基礎を作りました。

 「舞鶴城城堀緑地公園」が県立高鍋農業高校のそばにあります。
「舞鶴城城堀緑地公園 案内図」から、
明倫堂跡、県立高鍋農業高等学校、大手門、太鼓橋 (たいこばし)、八ツ橋、三の丸、二の丸、大クス、舞鶴公園、資料館、美術館、蓑崎門跡、嶋田門跡などが載 (の)っています。
城堀の由来 (ゆらい)
 この城堀は、高鍋藩3代藩主 秋月種信が寛永13年 (西暦1673年)の正月7日に着工し、わずか2ヶ月足 (た)らずで完成したものである。
 高鍋城 三の丸外側をめぐり、蓑崎口から黒谷に至 (いた)る延長530 m で、主要地点を石積とし他は両側共 芝生 (しばふ)の土手となっており、内側土手の上は白い築地塀 (へい)を巡 (めぐ)らしていた。 又、この城堀の内側に3ヶ所の城門が設 (もう)けられていた。 堀の北詰 (きたづめ)に「嶋田門」、南詰には「蓑崎門」があり、何 (いず)れも延宝3年2月の完成であるが、現在その跡は見られない。 城堀の現存する城跡は県内でも珍 (めず)しい。

 「宮崎県立 高鍋農業高等学校」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 1339-2 にあります。
1903年4月に児湯郡立 高鍋農業校として設立されました。 校訓は研学修技、勤労興産、礼節敬愛、感恩報謝です。 過去の名称は児湯郡立高鍋農業校、宮崎県立高鍋農業校、宮崎県立高鍋高等学校農業部でした。

 「高鍋城跡(舞鶴城跡、舞鶴公園)」は宮崎県児湯郡高鍋町大字上江1345にあります。
高鍋城跡(舞鶴城跡、舞鶴公園)では桜祭りが開かれます。 園内の桜は約1000本のソメイヨシノと山桜があり、城の石垣 (いしがき)、階段などと調和して見事な景観を楽しめます。
高鍋城は説明板から、
「沿革」
  もと財部城といったが、後、高鍋城に改め通常は舞鶴城と呼ばれている。
 平安時代中期(斉衛年間 854年−857年)土持氏の所有となり、在来の山城を補修し、ここにおることおよそ600年に及んだ。
 長禄元年(1457年)伊東氏の所有となり、その48城の一つとして、武将 落合民部これを守った。 およそ120年の後、天正5年伊東氏を破り島津氏の所有となった。 後 天正15年(1587年)島津氏は豊臣秀吉に降伏し、同年7月秋月氏の居城となり約280年、明治の廃藩に至るまで続いた。
 寛文9年(1669年)6月、秋月氏3代藩主種信「財部」を「高鍋」と改め居城の修復に着手、岩坂門、石垣、城堀、大手門、本丸など数年を要して完成、近世の城の様式を備えるに至った。
「構造」
 天然の要害を巧みに利用し丘の中腹に心臓部の本丸を設け一段下がった平地を二の丸とし、更に下ったところを三の丸とし、北、南、東を堀で区切り、西は背後の山に野首掘切りを設けた。
「史跡」
 旧城内は、現在舞鶴公園として整備せられ、舞鶴公園、護国神社、石垣、堀、国指定の天然記念物の「高鍋大楠(くすのき)」をはじめ、次のような社寺や建造物の跡、各種記念碑など史跡が多い。
天然記念物1、社寺跡8、歌碑2、建造物の跡12、各種記念碑11 合計34。
 「高鍋藩 (秋月藩)」は1代は種長、2代は種春、3代は種信、4代は種政、5代は種弘、6代は種美、7代は種茂、8代は種徳、9代は種任、10代は種殷です。 高鍋藩 (秋月藩)は宮崎県児湯郡の東部 (高鍋町、木城町、川南町、都農町、日向市の美々津)と串間市、宮崎市 (瓜生野、倉岡の1部)、国富町 (木脇)を持っていました。 外様 (とざま)です。 藩庁は高鍋城 (舞鶴城、高鍋町)で高鍋は初期は財部 (たからべ)と呼 (よ)ばれていました。 秋月は福岡県の筑前国を領有していました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)のときに島津とともに秀吉軍と戦いましたが、その後、秀吉に恭順 (きょうじゅん)して、日向国 串間 (3万石)に移封されました。 1600年 (慶長5年)関ヶ原の戦いのとき秋月種長は西軍に属して大垣城を守っていましたが、9月15日の関ヶ原の戦いの本戦で、西軍が負けると東軍に属しました。 それで所領を安堵 (あんど)されました。 1604年 (慶長9年)に居城を串間から財部城 (高鍋城)に移しました。 3代秋月種信は1673年に財部 (たからべ)から高鍋に地名を変えました。 4代種政は1689年に弟 (種封)に3000石を分け与えたため、以後高鍋藩は2万7000石となりました。 江戸中期に6代種美の次男は米沢藩 (上杉 氏)に入り、名君 上杉鷹山 (ようざん)となりました。 その兄の7代種茂も高鍋藩の名君となり、1778年 (安永7年)に藩校 明倫堂 (めいりんどう)を開校しました。 秋月は10代のときに明治時代になりました。 1871年 (明治4年)に廃藩置県で高鍋県となりました。 その後に美々津県、宮崎県、鹿児島県、宮崎県になりました。


写真A: 「←舞鶴公園」と書いてある標識があります。 左は舞鶴城、右奥は宮崎県立 高鍋農業高校です。 北を見たものです。



写真B: 西を見たものです。 舞鶴城の石垣 (いしがき)、駐車場があります。 左手前に小型の石灯籠 (いしどうろう)があります。
「高鍋城跡(舞鶴城跡、舞鶴公園)」は宮崎県児湯郡高鍋町大字上江1345にあります。



写真C: 右は高鍋農業高校、左は舞鶴城です。 北を見たものです。



写真D: 北東を見たものです。 高鍋農業高校のグラウンド、体育館、校舎などがあります。
「宮崎県立 高鍋農業高等学校」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 1339-2 にあります。



写真E: 東を見たものです。 奥に進みます。 先に高鍋町美術館、町立高鍋図書館、火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)、最後の連合艦隊司令長官 小沢治三郎の生家、八坂神社などがあります。



写真F: 右奥に山もあります。



写真G: 南を見たものです。 右は舞鶴城です。



写真H: 舞鶴城の石垣 (いしがき)のそばに多くの小型の石灯籠 (いしどうろう)があります。 右寄りに高鍋町 歴史総合資料館の屋根が見えています。



写真I: 「←高鍋町美術館」と書いてある標識があります。 南を見たものです。 右は舞鶴城です。



写真J: 「カンナの花」が咲いていました。



写真K: 舞鶴城城堀緑地公園の東屋 (あずまや)があります。 南西を見たものです。 手前に石の灯明が2つ見えます。 高鍋農業高校のそばにあります。



写真L: 北西を見たものです。 高鍋農業高校が見えます。



写真M: 「舞鶴城城堀緑地公園 案内図」があります。
明倫堂跡、県立高鍋農業高等学校、大手門、太鼓橋 (たいこばし)、八ツ橋、三の丸、二の丸、大クス、舞鶴公園、資料館、美術館、蓑崎門跡、嶋田門跡などが載 (の)っています。
城堀の由来 (ゆらい)
 この城堀は、高鍋藩3代藩主 秋月種信が寛永13年 (西暦1673年)の正月7日に着工し、わずか2ヶ月足 (た)らずで完成したものである。
 高鍋城 三の丸外側をめぐり、蓑崎口から黒谷に至 (いた)る延長530 m で、主要地点を石積とし他は両側共 芝生 (しばふ)の土手となっており、内側土手の上は白い築地塀 (へい)を巡 (めぐ)らしていた。 又、この城堀の内側に3ヶ所の城門が設 (もう)けられていた。 堀の北詰 (きたづめ)に「嶋田門」、南詰には「蓑崎門」があり、何 (いず)れも延宝3年2月の完成であるが、現在その跡は見られない。 城堀の現存する城跡は県内でも珍 (めず)しい。
 この城堀を貴重な史跡として保存するため、昭和55年度から62年度まで、都市公園緑地整備事業により改修整備された。
主な施設概要 園路 630 m、石積 478 m 、詰杭 963 m 、四阿 (しあ、東屋 (あずまや)のこと。) 2基、八ツ橋 2基、太鼓橋 (たいこばし) 1基、湧泉 1基、植栽 (シダレ桜外46種21700本)。
と書かれています。



写真N: 「舞鶴城城堀緑地公園 案内図」です。
明倫堂跡、県立高鍋農業高等学校、大手門、太鼓橋 (たいこばし)、八ツ橋、三の丸、二の丸、大クス、舞鶴公園、資料館、美術館、蓑崎門跡、嶋田門跡などが載 (の)っています。
城堀の由来 (ゆらい)
 この城堀は、高鍋藩3代藩主 秋月種信が寛永13年 (西暦1673年)の正月7日に着工し、わずか2ヶ月足 (た)らずで完成したものである。
 高鍋城 三の丸外側をめぐり、蓑崎口から黒谷に至 (いた)る延長530 m で、主要地点を石積とし他は両側共 芝生 (しばふ)の土手となっており、内側土手の上は白い築地塀 (へい)を巡 (めぐ)らしていた。 又、この城堀の内側に3ヶ所の城門が設 (もう)けられていた。 堀の北詰 (きたづめ)に「嶋田門」、南詰には「蓑崎門」があり、何 (いず)れも延宝3年2月の完成であるが、現在その跡は見られない。 城堀の現存する城跡は県内でも珍 (めず)しい。
 この城堀を貴重な史跡として保存するため、昭和55年度から62年度まで、都市公園緑地整備事業により改修整備された。
主な施設概要 園路 630 m、石積 478 m 、詰杭 963 m 、四阿 (しあ、東屋 (あずまや)のこと。) 2基、八ツ橋 2基、太鼓橋 (たいこばし) 1基、湧泉 1基、植栽 (シダレ桜外46種21700本)。
と書かれています。



写真O: 「舞鶴城城堀緑地公園 案内図」があります。
明倫堂跡、県立高鍋農業高等学校、大手門、太鼓橋 (たいこばし)、八ツ橋、三の丸、二の丸、大クス、舞鶴公園、資料館、美術館、蓑崎門跡、嶋田門跡などが載 (の)っています。
城堀の由来 (ゆらい)
 この城堀は、高鍋藩3代藩主 秋月種信が寛永13年 (西暦1673年)の正月7日に着工し、わずか2ヶ月足 (た)らずで完成したものである。
 高鍋城 三の丸外側をめぐり、蓑崎口から黒谷に至 (いた)る延長530 m で、主要地点を石積とし他は両側共 芝生 (しばふ)の土手となっており、内側土手の上は白い築地塀 (へい)を巡 (めぐ)らしていた。 又、この城堀の内側に3ヶ所の城門が設 (もう)けられていた。 堀の北詰 (きたづめ)に「嶋田門」、南詰には「蓑崎門」があり、何 (いず)れも延宝3年2月の完成であるが、現在その跡は見られない。 城堀の現存する城跡は県内でも珍 (めず)しい。
 この城堀を貴重な史跡として保存するため、昭和55年度から62年度まで、都市公園緑地整備事業により改修整備された。
主な施設概要 園路 630 m、石積 478 m 、詰杭 963 m 、四阿 (しあ、東屋 (あずまや)のこと。) 2基、八ツ橋 2基、太鼓橋 (たいこばし) 1基、湧泉 1基、植栽 (シダレ桜外46種21700本)。
と書かれています。



写真P: 城堀です。 水もあります。 石垣 (いしがき)も見えます。 手前に石の灯明が3つあります。 南を見たものです。



写真Q: 宮崎県 児湯郡 高鍋町にある舞鶴城の城堀です。 南を見たものです。



写真R: 北を見たものです。 東屋 (あずまや)があります。



写真S: 「椿 (つばき)の実」がありました。



写真T: 東を見たものです。 「宮崎県立 高鍋農業高等学校、←正門」の青い標識が小さく見えます。



写真U: 木の「ウツギの花」が咲いていました。



写真V: 舞鶴城の堀 (ほり)です。 奥に高鍋農業高等学校の体育館が見えます。 北を見たものです。



写真W: 堀 (ほり)と橋が見えます。 北を見たものです。



写真X: 「宮崎県立 高鍋農業高等学校、←正門」の標識があります。 右の道を進みます。



写真Y: 宮田川の支流の土手にペットボトルを多く吊 (つ)り下げた物が3つ見えます。 このようなものは初めて見ました。 南を見たものです。



写真Z: 宮田川の支流の橋です。 東を見たものです。



写真AA: 宮田川の支流です。 下流方向 (南)を見たものです。 奥の山の上に建物が見えます。 右にペットボトルの造形物があります。 南を見たものです。
「宮田川」は茶臼原 (ちゃうすばる)付近を源流として、東へ流れ古港で日向灘 (太平洋)に注 (そそ)いでいます。 延長 約8 km です。 宮田川の両側に高鍋湿原があります。 舞鶴城 (まいづるじょう)の東側も流れていて外堀の役目をしていました。



写真AB: 宮田川の支流です。 上流方向 (北)を見たものです。 右にアパートがあります。
「宮田川」は茶臼原 (ちゃうすばる)付近を源流として、東へ流れ古港で日向灘 (太平洋)に注 (そそ)いでいます。 延長 約8 km です。 宮田川の両側に高鍋湿原があります。 舞鶴城 (まいづるじょう)の東側も流れていて外堀の役目をしていました。



写真AC: 「団井歯科」と書いてあります。 東を見たものです。



写真AD: 西を見たものです。 右端が高鍋町立 高鍋図書館です。 左に筏 (いかだ)自治公民館の掲示版 (けいじばん)と時計が見えます。 ここは三叉路 (さんさろ)になっています。



写真AE: 北西を見たものです。 町立 高鍋図書館です。
「高鍋町立 高鍋図書館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 南高鍋 551 にあります。



写真AF: 北を見たものです。 左手前が町立 高鍋図書館です。



写真AG: 東を見たものです。 こちらから来ました。



写真AH: 「町立高鍋図書館」と書いてある看板 (かんばん)があります。 掲示版 (けいじばん)に「特設コーナー」と書いてあります。 北西を見たものです。



写真AI: 北を見たものです。 右に「明倫保育園」と書いてあります。



写真AJ: 高鍋図書館の石垣 (いしがき)です。



写真AK: 高鍋図書館の入り口です。 西を見たものです。
「高鍋町立 高鍋図書館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 南高鍋 551 にあります。
明倫堂書庫、秋月毅堂書庫、秋月左都夫 邸にあった潜り戸 (くぐりど)、柿原政一郎の胸像、明倫桜などが敷地内 (しきちない)にあります。 蔵書数は約60000冊です。



写真AL: 高鍋図書館の建物です。



写真AM: 南を見たものです。



写真AN: 「明倫桜」の説明板があります。
 昔から明倫堂にあった桜でオオシマザクラ系のサトサクラの1品種。 花が美しく、ちりぎわのよい桜です。 同じ種類のものが舞鶴公園にもあります。
と書いてあります。



写真AO: 高鍋図書館にある明倫桜です。 南を見たものです。



写真AP: 「柿原政一郎 翁 (おきな)」の説明板があります。



写真AQ: 柿原政一郎の像 (胸像)が高鍋図書館にあります。 北を見たものです。



写真AR: 柿原政一郎の像の近くです。



写真AS: 柿原政一郎の像 (胸像)です。



写真AT: 「柿原政一郎 翁 (おきな)」と像の台に書いてあります。



写真AU: 柿原政一郎の像の台座にある銅板です。



写真AV: 「明倫堂書庫」
旧高鍋藩の学校 明倫堂の書庫を正幸会が買い取り昭和29年当所に移転復原して町に寄付したもので明倫堂の図書1万6000冊を収納している。
「秋月毅堂書庫」
 高鍋町筏出身、元オーストリヤ大使 秋月左都夫 (号は毅堂)の書庫を正幸会が買い取り昭和29年移転し高鍋町に寄付したもので同家及 (およ)び諸家の図書を収納している。
と書いてあります。



写真AW: 「明倫堂書庫」
旧高鍋藩の学校 明倫堂の書庫を正幸会が買い取り昭和29年当所に移転復原して町に寄付したもので明倫堂の図書1万6000冊を収納している。



写真AX: 「秋月毅堂書庫」
 高鍋町筏出身、元オーストリヤ大使 秋月左都夫 (号は毅堂)の書庫を正幸会が買い取り昭和29年移転し高鍋町に寄付したもので同家及 (およ)び諸家の図書を収納している。



写真AY: 西を見たものです。



写真AZ: 高鍋町立 高鍋図書館です。



写真BA: 高鍋図書館です。



写真BB: 高鍋図書館の玄関 (げんかん)です。 南を見たものです。
「高鍋町立 高鍋図書館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 南高鍋 551 にあります。
明倫堂書庫、秋月毅堂書庫、秋月左都夫 邸にあった潜り戸 (くぐりど)、柿原政一郎の胸像、明倫桜などが敷地内 (しきちない)にあります。 蔵書数は約60000冊です。



写真BC: 左は自転車置き場です。 その右に潜り戸 (くぐりど)があります。



写真BD: 町立 高鍋図書館の入り口です。 南東を見たものです。



写真BE: 高鍋町立 高鍋図書館の玄関 (げんかん)です。
「高鍋図書館」と壁 (かべ)に書いてあります。 「図書返却口」が左にあります。 傘立て (かさたて)もあります。
「高鍋町立 高鍋図書館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 南高鍋 551 にあります。



写真BF: 高鍋図書館の駐輪場です。



写真BG: 「この潜り戸 (くぐりど)は、明治の外交官 秋月左都夫 邸 (てい)にあったものを復元したものです。 平成24年6月」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真BH: 明治の外交官 秋月左都夫 邸 (てい)にあった潜り戸 (くぐりど)です。 高鍋図書館にあります。 南を見たものです。



写真BI: 南東を見たものです。



写真BJ: 藤棚 (ふじだな)があります。 南を見たものです。



写真BK: 西を見たものです。 高鍋図書館の庭です。 石垣 (いしがき)、ソテツの木もあります。



写真BL: 高鍋図書館の南側面です。



写真BM: 南側面の上部です。



写真BN: 広めのガラスです。



写真BO: 高鍋図書館の東側面と潜り戸 (くぐりど)です。



写真BP: 高鍋図書館の建物の南東端です。



写真BQ: 南側の車道から見た高鍋図書館です。 大きな木もあります。 西を見たものです。 奥は舞鶴城跡です。



写真BR: 東を見たものです。 右に掲示版 (けいじばん)、時計があります。 先に進みます。 先に行くと最後の連合艦隊司令長官 小沢治三郎の生家、火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)、八坂神社などがあります。



写真BS: 高鍋図書館のそばの筏 (いかだ)自治公民館の掲示版 (けいじばん)と時計です。
「消費トラブルで 困ったときは すぐ相談! 西都児湯消費生活相談センター」などがあります。



写真BT: マンホールの蓋 (ふた)です。 高鍋町の「町花のナデシコの花」の模様 (もよう)と「おすい」と書いてあります。



写真BU: 東を見たものです。 右にきれいに整備された溝 (みぞ)があります。



写真BV: 溝 (みぞ)の水は澄 (す)んでいて底 (そこ)が見えます。



写真BW: 「めいりん児童クラブ」の建物です。 北を見たものです。



写真BX: 「めいりん児童クラブ」です。



写真BY: 「めいりん児童クラブ」と書いてあります。



写真BZ: 高鍋町消防団 第5部機庫です。



写真CA: 「高鍋町消防団 第5部機庫」、「消防団員募集中」と書いてあります。 南を見たものです。



写真CB: 高鍋町消防団 第5部機庫の上部です。



写真CC: 高鍋町消防団 第5部機庫の東側面も見えます。



写真CD: 西を見たものです。 奥に町立 高鍋図書館、舞鶴城跡などがあります。



写真CE: 東を見たものです。 T字路になっています。 左に進むと最後の連合艦隊司令長官 小沢治三郎の生家、火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)があります。 右に進むと八坂神社があります。



写真CF: 北を見たものです。 左が最後の連合艦隊司令長官 小沢治三郎の生家です。 火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)も先にあります。



写真CG: 「最後の連合艦隊司令長官であった小沢治三郎 (小澤治三郎)の生家」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 高鍋町 (たかなべまち) にあります。
1886年 (明治19年)10月2日に生まれ、1966年 (昭和41年)11月9日に80歳で亡 (な)くなりました。 最終階級は海軍中将で、第31代目の最後の連合艦隊司令長官を勤めました。 宮崎県 児湯郡 高鍋町で生まれました。 海軍兵学校第37期生です。 開戦の時に陸軍と共同してマレー半島攻略に貢献 (こうけん)しました。 マリアナ沖海戦で小沢が考えたのは「アウトレンジ戦法」です。 これは日本の艦載機の航続距離がアメリカのより長いことを利用して、敵空母の飛行甲板 (かんぱん)を使用不能にした後に、前衛部隊を突入させるという戦法です。 しかし、艦載機の搭乗員の腕前が訓練不足のため低く失敗しました。 レイテ沖に向かう栗田健男 中将の第2艦隊の支援をして、敵機動部隊の囮役 (おとりやく)を与えられました。 昭和19年11月18日海軍大学校長になりました。 昭和19年5月29日に海軍総隊司令長官 兼 連合艦隊司令長官、海上護衛司令長官になりました。 海軍大臣・米内光政 大将から大将へ昇進するように要請されましたが断 (ことわ)りました。 戦後には現在の日本郷友連盟の基礎を作りました。



写真CH: 小沢治三郎の生家の下部です。



写真CI: 「小澤治三郎生家」と書いてあります。



写真CJ: 南を見たものです。 このT字路の右の道から来ました。



写真CK: 北を見たものです。 左が小沢治三郎生家です。



写真CL: 小沢治三郎の生家の南側面です。



写真CM: 小沢治三郎生家の南側面です。



写真CN: 最後の連合艦隊司令長官 小沢治三郎の生家の北側面です。



写真CO: 「最後の連合艦隊司令長官であった小沢治三郎 (小澤治三郎)の生家」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 高鍋町 (たかなべまち) にあります。
1886年 (明治19年)10月2日に生まれ、1966年 (昭和41年)11月9日に80歳で亡 (な)くなりました。 最終階級は海軍中将で、第31代目の最後の連合艦隊司令長官を勤めました。 宮崎県 児湯郡 高鍋町で生まれました。 海軍兵学校第37期生です。 開戦の時に陸軍と共同してマレー半島攻略に貢献 (こうけん)しました。 マリアナ沖海戦で小沢が考えたのは「アウトレンジ戦法」です。 これは日本の艦載機の航続距離がアメリカのより長いことを利用して、敵空母の飛行甲板 (かんぱん)を使用不能にした後に、前衛部隊を突入させるという戦法です。 しかし、艦載機の搭乗員の腕前が訓練不足のため低く失敗しました。 レイテ沖に向かう栗田健男 中将の第2艦隊の支援をして、敵機動部隊の囮役 (おとりやく)を与えられました。 昭和19年11月18日海軍大学校長になりました。 昭和19年5月29日に海軍総隊司令長官 兼 連合艦隊司令長官、海上護衛司令長官になりました。 海軍大臣・米内光政 大将から大将へ昇進するように要請されましたが断 (ことわ)りました。 戦後には現在の日本郷友連盟の基礎を作りました。



写真CP: 小沢治三郎の生家の敷地 (しきち)は東西に長くなっています。



写真CQ: 南を見たものです。



写真CR: 東を見たものです。 NTTの高いアンテナ塔が見えます。
NTT西日本 高鍋ビルは宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字北高鍋 にあります。



写真CS: NTTの高いアンテナ塔が見えます。
NTT西日本 高鍋ビルは宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字北高鍋 にあります。 東を見たものです。



写真CT: 古い歴史のある2階建ての建物があります。



写真CU: 「洋服のお直 (なお)し、おはり子 tsun」、「駐車場は2軒隣の1番・6番です。→」と書いてあります。



写真CV: 北を見たものです。



写真CW: 北西を見たものです。 左に鳥居 (とりい)があります。 火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)です。



写真CX: 「火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 高鍋町 (たかなべまち) 608 にあります。 西を見たものです。



写真CY: 「火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 高鍋町 (たかなべまち) 608 にあります。
「参拝者駐車場」と書いてあります。 2つの鳥居 (とりい)、石灯籠 (いしどうろう)、拝殿、手水舎 (ちょうずや)、鎮守の森 (ちんじゅのもり)が見えます。



写真CZ: 南西を見たものです。 右は鳥居 (とりい)です。



写真DA: 南を見たものです。 高鍋町 高鍋町 (たかなべまち)の町並み (まちなみ)です。 先に小沢治三郎の生家、八坂神社があります。



写真DB: 火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)の近くです。 南を見たものです。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)