妙円寺跡石塔群 (現在は本勝寺) (石塚城主 伊東祐武の墓、丘の東向きの斜面に1237基の五輪塔や板碑 (いたぴ、石造りの卒塔婆 (そとば))、南北朝時代の末期以後の紀年銘があります。五輪塔681基、板碑 (いたぴ)546基、その他墓石記念碑等10基、計1237基、昭和62年に市指定史跡、県指定 有形文化財 (指定年月日 平成15年10月16日)、法華宗 (本門流)千仏山 本勝寺 (生目鬼子母神)の境内、藤棚 (ふじだな)、宮崎西バイパス (国道10号)、大塚台団地、生目神社、生目南中学校、宮崎市 大字浮田の町並み (まちなみ)、宮崎市 生目の町並み (まちなみ))  (宮崎県 宮崎市 大字浮田 字仲間 437)







<標高、位置>  妙円寺跡 石塔群のある「本勝寺 (生目鬼子母神)」は
標高 約20 m
 北緯31度55分21秒  東経131度22分36秒

<標高、位置>  妙円寺跡 石塔群のある本勝寺に行く道と県道334号線との「交差点」は
標高 約10 m
 北緯31度55分25秒  東経131度22分41秒

<標高、位置>  生目南中学校は
標高 約30 m
 北緯31度55分23秒  東経131度22分29秒

<標高、位置>  生目神社 (いきめじんじゃ)は
標高 約40 m
 北緯31度55分05秒  東経131度22分37秒


  「妙円寺跡 石塔群 (みょうえんじあとせきとうぐん)のある本勝寺 (生目鬼子母神)」は宮崎県 宮崎市 大字浮田 字仲間 437 にあります。
 草刈り (くさかり)などよく整備された西の山の東斜面に石塔群があります。 石塔の並 (なら)び方は、南北に1列に並んでいます。 そのような列が何列も斜面にあり、計1237基の見事 (みごと)な石塔群になっています。 石塚城主の伊東祐武の墓がそこにあります。
 「石塚城」は生目小学校のそばの山にありました (宮崎県 宮崎市 大字浮田 字城ノ下)。 伊東祐武が築城しました (応永年間 (1394年〜1429年))。 都於郡 (とのこおり)の伊東の本家から車阪城との交換を頼 (たの)まれ、伊東祐武は車阪城に移りました。 それで石塚城は伊東48城の1つになりました。 石塚城の城主は伊東祐武、伊東48城になってからは平賀刑部少輔 (すけ)でした。 1401年 (応永8年)に島津の兵が高蝉(せみ)城に陣取って石塚城を攻撃しましたが、伊東祐武はこれを撃退しました。
「法華宗 本勝寺 (生目鬼子母神)」の説明板から、
1 年始国寿会 1月1日、1 節分会 2月、1 鬼子母神祭 2月28日、1 春季彼岸会 3月、1 花祭 4月、1 孟蘭盆会 8月14日、1 龍ノ口法難会 9月12日、1 秋季彼岸会 9月、1 御会式 10月13日、1 安産祈願、1 病気平癒祈願。
古くより妙円寺なる古刹 (こさつ、古く由緒ある寺。)ありしが、廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)により廃寺となり、藤元智明 師により再興さる。 「中世期の石塔 1200基を有する。」
 「妙円寺跡石塔群」の説明板から、
種別 県指定 有形文化財、名称 妙円寺跡石塔群、指定年月日 平成15年10月16日
 この石塔群は、南北朝末期以降の紀年 (紀元から起算した年数。)在銘 (住所の地名。)を持つ五輪塔681基、板碑 (いたぴ)546基、その他墓石記念碑等10基、計1237基が階段状に造立されており、その規模の大きさは、県内はもとより九州地域内でも類を見ない。
 石塔群は、昭和11年に藤元智明 住持らにより発掘 (はっくつ)され、現在の配置に改設された。 最も古いものは、板碑で貞治2年 (1363年)、五輪塔で至徳2年 (1385年)であり、紀年銘が判明している石塔の75パーセントが室町時代のものである。
 また、日蓮宗 (にちれんしゅう)の日向伝播 (でんぱ)に関連のある人の名前や、伊東略系図、長友系図上の名前を銘文に持ったものが確認されており、地方史はもちろん宗教史のうえからも、貴重な資料を提供する石塔群である。
 「五輪塔」は平安時代の中期の頃 (ころ)から供養塔 (くようとう)や墓塔として造られました。 石造りが多く、金銅・木・泥土 (どろつち)などでも造られました。
「板碑 (いたぴ)」は石造りの卒塔婆 (そとば)です。 平板石を用い、頂 (いただ)きを四角錐 (しかくすい、底面が四角形の角錐 (かくすい))に作ったものが多い。 鎌倉・室町時代に死者追善、生前の逆修供養のために建立 (こんりゅう)されました。
 「妙円寺 (みょうえんじ)」は南北朝時代に創建されました。 日蓮宗富士門派の寺です。 明治時代初期の廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)で廃寺になりました。 場所は現在、本勝寺があるところにありました。

 「大塚台団地」は1975年頃 (ごろ)に出来ました。 1975年に大塚台東1〜2丁目・大塚台西1〜3丁目が出来ました。 大淀川の高松橋の西にあります。

 「生目台団地」は1985年頃 (ごろ)から出来ました。 生目神社の南側にあります。

 「宮崎西バイパス」は宮崎市 大橋から宮崎市 大字富吉までの全長約 6 km の国道10号バイパスです。 2000年に全線供用開始しました。 2004年に全線4車線になりました。
 「宮崎北バイパス」は宮崎市 江平から宮崎市 大字新名爪までの全長約 6 km の国道10号バイパスです。 1998年に全線2車線が開通しました。 2000年に全線4車線になりました。
 「宮崎南バイパス」は宮崎市 大淀4丁目から宮崎市 大字熊野までの全長約 10 km の国道220号バイパスです。 1979年9月12日に4車線で全線開通しました。


写真A: 県道334号線です。 南を見たものです。 奥に生目神社の鎮守の森 (ちんじゅのもり)があります。 その手前に十字路があり、左 (東)に曲がると大塚台団地があります。 「大塚台団地」は1975年頃 (ごろ)に出来ました。 1975年に大塚台東1〜2丁目・大塚台西1〜3丁目が出来ました。 大淀川の高松橋の西にあります。 「生目台団地」は1985年頃 (ごろ)から出来ました。 生目神社の南側にあります。
手前に進むと妙円寺跡 石塔群のある「本勝寺」があります。 これからその本勝寺に行きます。



写真B: 北を見たものです。 手前に宮之下川にかかっている宮ノ下橋があります。 宮崎市 生目の町並み (まちなみ)です。 県道334号線です。



写真C: 橋に「宮ノ下橋」と書いてあります。



写真D: 「生目南中学校 ←」と書いてある看板 (かんばん)が見えます。



写真E: 「生目南中学校 ←」と書いてある看板 (かんばん)です。



写真F: 「生目南公民館 左折 500 m 先」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真G: 北を見たものです。 「生目農材」と書いてある看板 (かんばん)があります。 宮崎市 生目の町並みです。



写真H: 「酒 たばこ 鮮魚 サカモト」と書いてあります。 商店です。



写真I: 「イキメ園芸センター」と建物に書いてあります。 宮崎市 生目の町並み (まちなみ)です。



写真J: 北へ進みます。



写真K: 左の家の下に見える道を左へ進むと妙円寺跡 石塔群のある「本勝寺」へ行きます。 右の道は県道334号線です。 宮崎市 大字浮田の町並み (まちなみ)です。 北を見たものです。



写真L: この交差点を左 (西)に曲がって本勝寺に行きます。 右の道は県道334号線で、奥に宮崎西バイパス (国道10号)が左右に通っているのが見えています。 宮崎市 大字浮田の町並み (まちなみ)です。
 「宮崎西バイパス」は宮崎市 大橋から宮崎市 大字富吉までの全長約 6 km の国道10号バイパスです。 2000年に全線供用開始しました。 2004年に全線4車線になりました。
 「宮崎北バイパス」は宮崎市 江平から宮崎市 大字新名爪までの全長約 6 km の国道10号バイパスです。 1998年に全線2車線が開通しました。 2000年に全線4車線になりました。
 「宮崎南バイパス」は宮崎市 大淀4丁目から宮崎市 大字熊野までの全長約 10 km の国道220号バイパスです。 1979年9月12日に4車線で全線開通しました。



写真M: 県道334号線から交差点の近くにある本勝寺の説明板が見えています。 その手前の道を左へ進んで本勝寺に行きます。



写真N: 北を見たものです。



写真O: 北西を見たものです。



写真P: 西を見たものです。 左の道を進みます。



写真Q: この坂を登って本勝寺に行きます。 本勝寺の説明板があります。



写真R: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 宮崎市 大字浮田の町並み (まちなみ)です。 県道334号線です。 南を見たものです。



写真S: 南東を見たものです。



写真T: 北東を見たものです。



写真U: 北を見たものです。



写真V: 南西を見たものです。



写真W: 「法華宗 本勝寺 (生目鬼子母神)」の説明板があります。
1 年始国寿会 1月1日、1 節分会 2月、1 鬼子母神祭 2月28日、1 春季彼岸会 3月、1 花祭 4月、1 孟蘭盆会 8月14日、1 龍ノ口法難会 9月12日、1 秋季彼岸会 9月、1 御会式 10月13日、1 安産祈願、1 病気平癒祈願。
古くより妙円寺なる古刹 (こさつ、古く由緒ある寺。)ありしが、廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)により廃寺となり、藤元智明 師により再興さる。 「中世期の石塔 1200基を有する。」
と書かれています。



写真X: 「法華宗 本勝寺 (生目鬼子母神)」の説明板です。
1 年始国寿会 1月1日、1 節分会 2月、1 鬼子母神祭 2月28日、1 春季彼岸会 3月、1 花祭 4月、1 孟蘭盆会 8月14日、1 龍ノ口法難会 9月12日、1 秋季彼岸会 9月、1 御会式 10月13日、1 安産祈願、1 病気平癒祈願。
古くより妙円寺なる古刹 (こさつ、古く由緒ある寺。)ありしが、廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)により廃寺となり、藤元智明 師により再興さる。 「中世期の石塔 1200基を有する。」
と書かれています。



写真Y: この坂道を登って本勝寺に行きます。 南を見たものです。



写真Z: 本勝寺に行きます。



写真AA: 本勝寺の参道です。



写真AB: 本勝寺の本堂の屋根が見えてきました。



写真AC: 右は本勝寺です。 南西を見たものです。



写真AD: 参道から南を見たものです。



写真AE: 南東を見たものです。



写真AF: 東を見たものです。 来た参道を振 (ふ)り返ったものです。



写真AG: 左の金網のところは広場になっています。 本勝寺が見えます。




写真AH: 金網の奥は広場です。



写真AI: 南を見たものです。



写真AJ: 右の建物は住職さんが住んでいた建物かもしれません。 現在は住職さんはいないと近所のご婦人から聞きました。



写真AK: 本勝寺と広場が見えます。



写真AL: 広場の看板 (かんばん)があります。
広場の金網に「宮崎市緑の募金緑化事業」の看板 (かんばん)があります。
 この植栽事業の1部は、皆様方からいただいた「緑の募金」を活用しています。 平成24年2月 浮田区自治会 宮崎市みどり推進会議
と書いてあります。



写真AM: 本勝寺と広場、金網があります。



写真AN: 本勝寺、看板 (かんばん)、広場、金網、建物、電柱などが見えます。



写真AO: 広場の金網です。



写真AP: 塀 (へい)のところを左折して本勝寺に行きます。 道は奥に続いていて、建物が見えます。 西を見たものです。



写真AQ: 南を見たものです。 本勝寺が見えます。 右にモウソウダケもあります。



写真AR: 道は先に続いています。 建物もあります。 西を見たものです。



写真AS: 南西を見たものです。



写真AT: 左の建物は住職さんの住居かもしれません。 今は本勝寺に住職さんはいないと近所のご婦人から聞きました。



写真AU: 南東を見たものです。



写真AV: 来た参道を振 (ふ)り返ったものです。



写真AW: 本勝寺のお堂です。
「妙円寺跡 石塔群のある本勝寺 (生目鬼子母神)」は宮崎県 宮崎市 大字浮田 字仲間 437 にあります。
「法華宗 本勝寺 (生目鬼子母神)」の説明板から、
1 年始国寿会 1月1日、1 節分会 2月、1 鬼子母神祭 2月28日、1 春季彼岸会 3月、1 花祭 4月、1 孟蘭盆会 8月14日、1 龍ノ口法難会 9月12日、1 秋季彼岸会 9月、1 御会式 10月13日、1 安産祈願、1 病気平癒祈願。
古くより妙円寺なる古刹 (こさつ、古く由緒ある寺。)ありしが、廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)により廃寺となり、藤元智明 師により再興さる。 「中世期の石塔 1200基を有する。」
「妙円寺 (みょうえんじ)」は南北朝時代に創建されました。 日蓮宗富士門派の寺です。 明治時代初期の廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)で廃寺になりました。 場所は現在、本勝寺があるところにありました。



写真AX: 南を見たものです。 説明板があります。



写真AY: ここにも五輪塔があります。 その奥にソテツの木があります。 本堂の左に妙円寺跡 石塔群が見えてきました。
妙円寺跡 石塔群は本勝寺の本堂の南側、西側に広がってあります。 そこは西が高い丘になっていて、その東斜面に階段状に石塔群が並 (なら)んでいます。



写真AZ: 本勝寺の境内 (けいだい)です。 裏 (西)は山になっています。 裏山にモウソウダケの竹林もあります。 南西を見たものです。



写真BA: 妙円寺跡石塔群の説明板があります。
種別 県指定 有形文化財、名称 妙円寺跡石塔群、指定年月日 平成15年10月16日
 この石塔群は、南北朝末期以降の紀年 (紀元から起算した年数。)在銘 (住所の地名。)を持つ五輪塔681基、板碑 (いたぴ)546基、その他墓石記念碑等10基、計1237基が階段状に造立されており、その規模の大きさは、県内はもとより九州地域内でも類を見ない。
 石塔群は、昭和11年に藤元智明 住持らにより発掘 (はっくつ)され、現在の配置に改設された。 最も古いものは、板碑で貞治2年 (1363年)、五輪塔で至徳2年 (1385年)であり、紀年銘が判明している石塔の75パーセントが室町時代のものである。
 また、日蓮宗 (にちれんしゅう)の日向伝播 (でんぱ)に関連のある人の名前や、伊東略系図、長友系図上の名前を銘文に持ったものが確認されており、地方史はもちろん宗教史のうえからも、貴重な資料を提供する石塔群である。
平成16年3月29日 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真BB: 妙円寺跡石塔群の説明板です。
種別 県指定 有形文化財、名称 妙円寺跡石塔群、指定年月日 平成15年10月16日
 この石塔群は、南北朝末期以降の紀年 (紀元から起算した年数。)在銘 (住所の地名。)を持つ五輪塔681基、板碑 (いたぴ)546基、その他墓石記念碑等10基、計1237基が階段状に造立されており、その規模の大きさは、県内はもとより九州地域内でも類を見ない。
 石塔群は、昭和11年に藤元智明 住持らにより発掘 (はっくつ)され、現在の配置に改設された。 最も古いものは、板碑で貞治2年 (1363年)、五輪塔で至徳2年 (1385年)であり、紀年銘が判明している石塔の75パーセントが室町時代のものである。
 また、日蓮宗 (にちれんしゅう)の日向伝播 (でんぱ)に関連のある人の名前や、伊東略系図、長友系図上の名前を銘文に持ったものが確認されており、地方史はもちろん宗教史のうえからも、貴重な資料を提供する石塔群である。
平成16年3月29日 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真BC: 妙円寺跡石塔群の説明板。
種別 県指定 有形文化財、名称 妙円寺跡石塔群、指定年月日 平成15年10月16日
 この石塔群は、南北朝末期以降の紀年 (紀元から起算した年数。)在銘 (住所の地名。)を持つ五輪塔681基、板碑 (いたぴ)546基、その他墓石記念碑等10基、計1237基が階段状に造立されており、その規模の大きさは、県内はもとより九州地域内でも類を見ない。
 石塔群は、昭和11年に藤元智明 住持らにより発掘 (はっくつ)され、現在の配置に改設された。 最も古いものは、板碑で貞治2年 (1363年)、五輪塔で至徳2年 (1385年)であり、紀年銘が判明している石塔の75パーセントが室町時代のものである。
 また、日蓮宗 (にちれんしゅう)の日向伝播 (でんぱ)に関連のある人の名前や、伊東略系図、長友系図上の名前を銘文に持ったものが確認されており、地方史はもちろん宗教史のうえからも、貴重な資料を提供する石塔群である。
平成16年3月29日 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真BD: 住職さんの住居だったものかもしれません。 北を見たものです。



写真BE: 金網のある広場です。 野草のツバナ (チガヤ)の穂とクローバーの花が多く見えます。 北東を見たものです。



写真BF: 東を見たものです。 広場です。



写真BG: 本勝寺の本堂です。
「法華宗 本勝寺 (生目鬼子母神)」の説明板から、
1 年始国寿会 1月1日、1 節分会 2月、1 鬼子母神祭 2月28日、1 春季彼岸会 3月、1 花祭 4月、1 孟蘭盆会 8月14日、1 龍ノ口法難会 9月12日、1 秋季彼岸会 9月、1 御会式 10月13日、1 安産祈願、1 病気平癒祈願。
古くより妙円寺なる古刹 (こさつ、古く由緒ある寺。)ありしが、廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)により廃寺となり、藤元智明 師により再興さる。 「中世期の石塔 1200基を有する。」



写真BH: 野草の「アザミの花」が咲いていました。



写真BI: 本堂の横木に彫り物 (ほりもの)があります。



写真BJ: 「千仏山 本勝寺」と書いてある額 (がく)があります。 彫り物 (ほりもの)もあります。



写真BK: 彫り物 (ほりもの)があります。



写真BL: 北を見たものです。 手水鉢 (ちょうずばち)があります。



写真BM: 本勝寺の中です。



写真BN: 本勝寺の中です。 太鼓 (たいこ)もあります。



写真BO: 本勝寺の中。



写真BP: 本勝寺の中です。



写真BQ: 本勝寺の階段です。



写真BR: 北を見たものです。 ソテツの木もあります。



写真BS: 東を見たものです。 広場と奥の民家が見えます。



写真BT: 南を見たものです。 藤棚 (ふじだな)の下にテーブルとベンチがあります。 右に妙円寺跡石塔群が見えます。



写真BU: 南西を見たものです。 これが妙円寺跡石塔群です。 右端は本堂です。



写真BV: 妙円寺跡石塔群です。 五輪塔、板碑 (いたぴ)、その他墓石記念碑など計1237基があります。 奥は山になっています。



写真BW: 西を見たものです。 本堂と妙円寺跡石塔群です。 数多くの石塔があります。



写真BX: 本勝寺の藤棚 (ふじだな)です。 テーブル、ベンチがあります。



写真BY: 本勝寺の藤の木です。 南を見たものです。



写真BZ: 南を見たものです。 多くの五輪塔と手前に板碑 (いたぴ)があります。 「五輪塔」は平安時代の中期の頃 (ころ)から供養塔 (くようとう)や墓塔として造られました。 石造りが多く、金銅・木・泥土 (どろつち)などでも造られました。
「板碑 (いたぴ)」は石造りの卒塔婆 (そとば)です。 平板石を用い、頂 (いただ)きを四角錐 (しかくすい、底面が四角形の角錐 (かくすい))に作ったものが多い。 鎌倉・室町時代に死者追善、生前の逆修供養のために建立 (こんりゅう)されました。



写真CA: 南を見たものです。 左が石塔群の東端です。 奥が石塔群の南端です。
草刈り (くさかり)などよく整備された西の山の東斜面に石塔群があります。 石塔の並 (なら)び方は、南北に1列に並んでいます。 そのような列が何列も斜面にあり、計1237基の見事 (みごと)な石塔群になっています。



写真CB: 多くの石塔群があります。 多くの五輪塔の間に板碑 (いたぴ)も見えます。 南南西を見たものです。
草刈り (くさかり)などよく整備された西の山の東斜面に石塔群があります。 石塔の並 (なら)び方は、南北に1列に並んでいます。 そのような列が何列も斜面にあり、計1237基の見事 (みごと)な石塔群になっています。



写真CC: 南西を見たものです。 五輪塔と板碑 (いたぴ)があります。
「五輪塔」は平安時代の中期の頃 (ころ)から供養塔 (くようとう)や墓塔として造られました。 石造りが多く、金銅・木・泥土 (どろつち)などでも造られました。
「板碑 (いたぴ)」は石造りの卒塔婆 (そとば)です。 平板石を用い、頂 (いただ)きを四角錐 (しかくすい、底面が四角形の角錐 (かくすい))に作ったものが多い。 鎌倉・室町時代に死者追善、生前の逆修供養のために建立 (こんりゅう)されました。



写真CD: 五輪塔、板碑 (いたぴ)が見えます。 西を見たものです。



写真CE: 石塔群は、昭和11年に本勝寺の藤元智明 氏らにより発掘 (はっくつ)されました。 そのときに現在の配置に並 (なら)べられました。 最も古いものは、板碑で貞治2年 (1363年)、五輪塔では至徳2年 (1385年)であり、紀年銘が分かっている石塔の75 % が室町時代のものだそうです。



写真CF: 西を見たものです。 奥は山で斜面になっています。



写真CG: 北西を見たものです。 本堂の南と西側に石塔群があります。



写真CH: 石塔群の方から本堂を見たものです。 北西を見たものです。



写真CI: 北を見たものです。 藤棚 (ふじだな)のそばにも石塔群があります。



写真CJ: 近くから見た板碑 (いたぴ)と五輪塔です。 溝 (みぞ)の格子 (こうし)があります。



写真CK: 近くから見た五輪塔です。



写真CL: 南を見たものです。 石塔群の南東部が見えます。



写真CM: 藤の根元 (ねもと)です。



写真CN: 南から見た本堂です。 屋根の下に彫り物 (ほりもの)があります。 本堂のそばにも石塔群があります。



写真CO: 本堂のそばに背の高い石塔があります。 椅子 (いす)もあります。 広場の金網も見えます。



写真CP: 東を見たものです。 藤棚 (ふじだな)も見えます。



写真CQ: 北東を見たものです。 妙円寺跡石塔群です。



写真CR: 本堂の近くの五輪塔と板碑 (いたぴ)です。



写真CS: 近くから見た五輪塔と本堂です。



写真CT: 左に西の山に登る階段が見えます。 北西を見たものです。



写真CU: 西の丘に登る階段の両側にも妙円寺跡石塔群があります。 階段の左に小さく標柱が見えます。



写真CV: 西の山です。 下に階段も見えます。



写真CW: 溝 (みぞ)と五輪塔があります。



写真CX: 五輪塔と板碑 (いたぴ)があります。 妙円寺跡石塔群です。



写真CY: 近くから見た五輪塔と板碑 (いたぴ)です。



写真CZ: 南を見たものです。 妙円寺跡石塔群です。
「妙円寺 (みょうえんじ)」は南北朝時代に創建されました。 日蓮宗富士門派の寺です。 明治時代初期の廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)で廃寺になりました。 場所は現在、本勝寺があるところにありました。



写真DA: 南東を見たものです。
草刈り (くさかり)などよく整備された西の山の東斜面に石塔群があります。 石塔の並 (なら)び方は、南北に1列に並んでいます。 そのような列が何列も斜面にあり、計1237基の見事 (みごと)な石塔群になっています。



写真DB: 階段の下方に藤棚 (ふじだな)があります。 東を見たものです。



写真DC: 妙円寺跡石塔群がずらっと並 (なら)んでいます。



写真DD: 丘への階段から南を見たものです。 上方はこのように高い杉林、竹林、雑木林などになっています。



写真DE: 奥は本堂です。



写真DF: 近くから見た石塔です。 北を見たものです。



写真DG: 妙円寺跡石塔群です。 北西を見たものです。



写真DH: 石塔群が並 (なら)んでいます。



写真DI: 階段状の東向き斜面に石塔群が並 (なら)んでいることが分かります。
草刈り (くさかり)などよく整備された西の山の東斜面に石塔群があります。 石塔の並 (なら)び方は、南北に1列に並んでいます。 そのような列が何列も斜面にあり、計1237基の見事 (みごと)な石塔群になっています。



写真DJ: 石塔群です。



写真DK: 階段の南そばに「石塚城主 伊東祐武 公の墓、生目地区振興会建之 (これを建てる。)」と書いてある標柱があります。 そばの五輪塔がその墓です。
「石塚城」は生目小学校のそばの山にありました (宮崎県 宮崎市 大字浮田 字城ノ下)。 伊東祐武が築城しました (応永年間 (1394年〜1429年))。 都於郡 (とのこおり)の伊東の本家から車阪城との交換を頼 (たの)まれ、伊東祐武は車阪城に移りました。 それで石塚城は伊東48城の1つになりました。 石塚城の城主は伊東祐武、伊東48城になってからは平賀刑部少輔 (すけ)でした。 1401年 (応永8年)に島津の兵が高蝉(せみ)城に陣取って石塚城を攻撃しましたが、伊東祐武はこれを撃退しました。



写真DL: 階段状の土の斜面に石塔群を並 (なら)べてあります。



写真DM: 妙円寺跡石塔群。



写真DN: 西を見たものです。 「石塚城主 伊東祐武 公の墓、生目地区振興会建之 (これを建てる。)」と書いてある標柱が見えます。 赤いツツジの花が見えます。



写真DO: 「石塚城主 伊東祐武 公の墓、生目地区振興会建之 (これを建てる。)」と書いてある標柱とその墓です。
「石塚城」は生目小学校のそばの山にありました (宮崎県 宮崎市 大字浮田 字城ノ下)。 伊東祐武が築城しました (応永年間 (1394年〜1429年))。 都於郡 (とのこおり)の伊東の本家から車阪城との交換を頼 (たの)まれ、伊東祐武は車阪城に移りました。 それで石塚城は伊東48城の1つになりました。 石塚城の城主は伊東祐武、伊東48城になってからは平賀刑部少輔 (すけ)でした。 1401年 (応永8年)に島津の兵が高蝉(せみ)城に陣取って石塚城を攻撃しましたが、伊東祐武はこれを撃退しました。



写真DP: 「石塚城主 伊東祐武 公の墓、生目地区振興会建之 (これを建てる。)」と書いてある標柱とその墓の下部です。



写真DQ: 「石塚城主 伊東祐武 公の墓、生目地区振興会建之 (これを建てる。)」と書いてある標柱とその墓。
「石塚城」は生目小学校のそばの山にありました (宮崎県 宮崎市 大字浮田 字城ノ下)。 伊東祐武が築城しました (応永年間 (1394年〜1429年))。 都於郡 (とのこおり)の伊東の本家から車阪城との交換を頼 (たの)まれ、伊東祐武は車阪城に移りました。 それで石塚城は伊東48城の1つになりました。 石塚城の城主は伊東祐武、伊東48城になってからは平賀刑部少輔 (すけ)でした。 1401年 (応永8年)に島津の兵が高蝉(せみ)城に陣取って石塚城を攻撃しましたが、伊東祐武はこれを撃退しました。



写真DR: 北を見たものです。 右は本堂です。 本堂の西側にも石塔群があります。
コンクリートブロックの土留め (つちどめ)もあります。



写真DS: 北を見たものです。
コンクリートブロックの土留め (つちどめ)も見えます。



写真DT: 北東を見たものです。 本堂も見えます。
草刈り (くさかり)などよく整備された西の山の東斜面に石塔群があります。 石塔の並 (なら)び方は、南北に1列に並んでいます。 そのような列が何列も斜面にあり、計1237基の見事 (みごと)な石塔群になっています。



写真DU: 低木の間にも石塔群があります。



写真DV: 西を見たものです。 階段の最上部です。 突き当り (つきあたり)にも板碑 (いたぴ)と五輪塔があります。



写真DW: 階段の最上部のそばに赤いツツジの花が咲いていました。 ツツジの花と石塔群です。



写真DX: 南を見たものです。



写真DY: 低木と石塔群です。



写真DZ: 東を見たものです。 登ってきた階段を振 (ふ)り返ったものです。 「石塚城主 伊東祐武 公の墓、生目地区振興会建之 (これを建てる。)」と書いてある標柱が見えます。



写真EA: 階段の最上部です。 そばに溝 (みぞ)があります。 西を見たものです。



写真EB: 左に赤いツツジの花が見えます。 階段の最上部のそばです。 板碑 (いたぴ)、五輪塔があります。



写真EC: 板碑 (いたぴ)の形がよく分かります。 「板碑 (いたぴ)」は石造りの卒塔婆 (そとば)です。 平板石を用い、頂 (いただ)きを四角錐 (しかくすい、底面が四角形の角錐 (かくすい))に作ったものが多い。 鎌倉・室町時代に死者追善、生前の逆修供養のために建立 (こんりゅう)されました。



写真ED: 階段の最上部から南を見たものです。 このあたりには板碑 (いたぴ)が多くあります。



写真EE: 南を見たものです。 奥にも赤いツツジの花があります。



写真EF: 南を見たものです。 奥にも板碑 (いたぴ)、五輪塔があります。



写真EG: 本勝寺の赤いツツジの花です。



写真EH: 石塔群が続いています。



写真EI: 宮崎県 宮崎市 大字浮田 字仲間 「本勝寺」境内 (けいだい)にある妙円寺跡石塔群です。



写真EJ: 並 (なら)んでいる石塔群の前に歩けるスペースがあります。



写真EK: 妙円寺跡石塔群です。



写真EL: 北西を見たものです。 赤いツツジの花があります。



写真EM: 階段の最上部から北を見たものです。 板碑 (いたぴ)、五輪塔が並 (なら)んでいます。 奥に歩いて行きます。



写真EN: このあたりも板碑 (いたぴ)が多くあります。 北を見たものです。



写真EO: 北を見たものです。



写真EP: 東を見たものです。 奥が低い斜面になっています。 五輪塔があります。



写真EQ: 南東を見たものです。 斜面に多くの五輪塔などがあります。



写真ER: 南を見たものです。 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 階段の最上部の先ほどの赤いツツジの花が見えます。



写真ES: 板碑 (いたぴ)などがあります。 北を見たものです。



写真ET: 北を見たものです。 モウソウダケがあります。 左に石塔群が見えます。



写真EU: 東を見たものです。 奥は低くなっています。 斜面に石塔群が見えます。



写真EV: 妙円寺跡石塔群です。 北東を見たものです。



写真EW: 北を見たものです。 左と右に石塔群があります。



写真EX: 五輪塔などがあります。



写真EY: 若いモウソウダケと石造物です。



写真EZ: 苔 (こけ)むした板碑 (いたぴ)も左にあります。



写真FA: モウソウダケの竹林があります。 左奥に板碑 (いたぴ)などが見えます。 西を見たものです。



写真FB: 石造物があります。



写真FC: 奥は高くなっています。 南西を見たものです。 板碑 (いたぴ)、五輪塔があります。



写真FD: 板碑 (いたぴ)が多くあります。 五輪塔もあります。 南西を見たものです。



写真FE: 妙円寺跡石塔群です。 ここはかなり高い所です。 南西を見たものです。



写真FF: 石造物です。 モウソウダケの筍 (たけのこ)の皮が落ちていました。



写真FG: 「南無妙法・・・」と板碑 (いたぴ)に彫 (ほ)ってあります。



写真FH: 階段の最上部のところに戻 (もど)って来ました。 赤いツツジの花が見えます。 南を見たものです。



写真FI: 階段の最上部の上方です。



写真FJ: これから階段を下 (くだ)ります。 右に赤いツツジの花が見えます。



写真FK: 見下 (みお)ろした階段とその付近です。 東を見たものです。



写真FL: 下に階段、左に本勝寺の本堂が見えます。 東を見たものです。



写真FM: 右遠くに宮崎西バイパス (国道10号)の高架 (こうか)が見えています。 本堂の屋根も見えます。 今いるところが高いので遠くも見えます。 北東を見たものです。 



写真FN: 斜面の高いところから見た景色 (けしき)です。 右奥は高い杉の木です。



写真FO: 斜面の高いところから北東を見たものです。 宮崎西バイパス (国道10号)の高架 (こうか)と照明の柱が見えます。 民家も見えます。 左は本堂です。
 「宮崎西バイパス」は宮崎市 大橋から宮崎市 大字富吉までの全長約 6 km の国道10号バイパスです。 2000年に全線供用開始しました。 2004年に全線4車線になりました。
 「宮崎北バイパス」は宮崎市 江平から宮崎市 大字新名爪までの全長約 6 km の国道10号バイパスです。 1998年に全線2車線が開通しました。 2000年に全線4車線になりました。
 「宮崎南バイパス」は宮崎市 大淀4丁目から宮崎市 大字熊野までの全長約 10 km の国道220号バイパスです。 1979年9月12日に4車線で全線開通しました。



写真FP: 階段を見下 (みお)ろしたものです。 東を見たものです。



写真FQ: 北東を見たものです。 手前の石塔群と本堂が見えます。 東が低い斜面になっているのが分かります。



写真FR: 本堂の近くに戻 (もど)って来ました。 右に藤棚 (ふじだな)が見えます。



写真FS: 本堂の南側はそばまで妙円寺跡石塔群があります。



写真FT: 南から見た本堂です。



写真FU: 本堂のそばの背の高い板碑 (いたぴ)です。
「南無妙法蓮華経、昭和22年5月」と彫 (ほ)ってあります。



写真FV: 板碑 (いたぴ)に「南無妙法蓮華経、昭和22年5月」と彫 (ほ)ってあります。



写真FW: 本堂です。 手入れをするためのスコップもあります。 椅子 (いす)も見えます。



写真FX: 本堂の南東の角 (かど)です。 西側の奥の斜面にも石塔群があります。



写真FY: 本堂の角 (かど)の上部です。



写真FZ: 横木に彫り物 (ほりもの)があります。 本勝寺の本堂です。



写真GA: 額 (がく)の下の横木にも彫り物 (ほりもの)があります。



写真GB: 本堂の東部です。



写真GC: 本堂の階段のところです。



写真GD: 階段のところです。 灰皿もあります。



写真GE: 柱の下部です。



写真GF: 東を見たものです。 アザミの花が咲いていました。 左にソテツの木もあります。 本堂のそばです。



写真GG: 東に広場があります。



写真GH: 北を見たものです。



写真GI: 北西を見たものです。



写真GJ: 西を見たものです。 西の山 (裏山 (うらやま))の木や竹、ソテツの木、本堂が見えます。



写真GK: 南を見たものです。 説明板があります。



写真GL: 北西を見たものです。



写真GM: 西を見たものです。



写真GN: 東を見たものです。 右に広場があります。



写真GO: 右上に大塚台団地が見えます。 南東を見たものです。
「大塚台団地」は1975年頃 (ごろ)に出来ました。 1975年に大塚台東1〜2丁目・大塚台西1〜3丁目が出来ました。 大淀川の高松橋の西にあります。



写真GP: 東を見たものです。 民家、丘の上の携帯電話の基地局アンテナが見えます。



写真GQ: 南を見たものです。 広場が見えます。



写真GR: 広場の金網に「宮崎市緑の募金緑化事業」の看板 (かんばん)があります。
 この植栽事業の1部は、皆様方からいただいた「緑の募金」を活用しています。 平成24年2月 浮田区自治会 宮崎市みどり推進会議
と書いてあります。



写真GS: 日向夏と思われる黄色の実が見えます。



写真GT: 東を見たものです。 県道334号線と左上に宮崎西バイパス (国道10号)が見えます。



写真GU: 参道から北東を見たものです。 民家、県道334号線があります。
宮崎市 大字浮田の町並み (まちなみ)です。



写真GV: 北東を見たものです。 手前は参道です。



写真GW: 南東を見たものです。 遠くに大塚台団地が見えます。



写真GX: 北東を見たものです。 左に宮崎西バイパス (国道10号)が見えます。 宮崎市 大字浮田の町並み (まちなみ)です。
 「宮崎西バイパス」は宮崎市 大橋から宮崎市 大字富吉までの全長約 6 km の国道10号バイパスです。 2000年に全線供用開始しました。 2004年に全線4車線になりました。
 「宮崎北バイパス」は宮崎市 江平から宮崎市 大字新名爪までの全長約 6 km の国道10号バイパスです。 1998年に全線2車線が開通しました。 2000年に全線4車線になりました。
 「宮崎南バイパス」は宮崎市 大淀4丁目から宮崎市 大字熊野までの全長約 10 km の国道220号バイパスです。 1979年9月12日に4車線で全線開通しました。



写真GY: 宮崎市 大字浮田です。



写真GZ: 北東を見たものです。



写真HA: 道の角 (かど)に仏像が3体あります。



写真HB: 左に本勝寺の説明板が見えています。 北を見たものです。



写真HC: 「妙円寺跡石塔群 生目地区振興会・生目商工会」と書いてある標識があります。



写真HD: 本勝寺の説明板です。



写真HE: 南を見たものです。 右は本勝寺の参道です。 左は県道334号線です。



写真HF: 野草の「ムラサキカタバミの花」が咲いていました。



写真HG: 電柱に「生目神社]と書いてあります。 南東を見たものです。 ここは宮崎市 大字浮田です。



写真HH: 北を見たものです。 宮之下川にかかっている右の宮ノ下橋と左の宮ノ下歩道橋です。 ここは宮崎市 生目です。



写真HI: 「みやのしたほどうきょう」と橋に書いてあります。



写真HJ: 東を見たものです。 高いところに大塚台団地が見えます。
「大塚台団地」は1975年頃 (ごろ)に出来ました。 1975年に大塚台東1〜2丁目・大塚台西1〜3丁目が出来ました。 大淀川の高松橋の西にあります。



写真HK: 大塚台団地です。
「大塚台団地」は1975年頃 (ごろ)に出来ました。 1975年に大塚台東1〜2丁目・大塚台西1〜3丁目が出来ました。 大淀川の高松橋の西にあります。



写真HL: 大塚台団地が東に見えます。
「大塚台団地」は1975年頃 (ごろ)に出来ました。 1975年に大塚台東1〜2丁目・大塚台西1〜3丁目が出来ました。 大淀川の高松橋の西にあります。



写真HM: 北を見たものです。 奥に生目神社の鎮守の森 (ちんじゅのもり)が見えます。



写真HN:  先に十字路があります。 宮崎市 生目の町並み (まちなみ)です。



写真HO:  南東を見たものです。 左奥は大塚台団地です。



写真HP:  北を見たものです。 右奥は生目神社の駐車場です。



写真HQ: 「生目神社」と看板 (かんばん)に書いてあります。 北を見たものです。



写真HR: 西を見たものです。 生目神社の駐車場です。



写真HS: 「生目南中学校→」、「生目神社←」、「あいさつから生まれる 笑顔 (えがお)が次への勇気」、(生目南中学校生徒会・地区青少年育成協議会)と書いてある標識があります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)