火産霊神社 (ほむすび神社) (荒神さん、火の神様、夏祭りでは太鼓台 (たいこだい)が練 (ね)り歩きます。高鍋町郷土の名木 大クスノキ (樹齢 約200年、樹高 約25 m、幹周 約670 cm)、舞鶴公園、舞鶴城、宮崎県立 高鍋農業高校)  (宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字高鍋町 (たかなべまち))







<標高、位置>  火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)は
標高 数 m
 北緯32度07分30秒  東経131度30分27秒

<標高、位置>  小沢治三郎 (最後の連合艦隊司令長官)の生家は
標高 数 m
 北緯32度07分26秒  東経131度30分30秒

<標高、位置>  八坂神社は
標高 数 m
 北緯32度07分26秒  東経131度30分35秒

<標高、位置>  高鍋町立 高鍋図書館は
標高 数 m
 北緯32度07分27秒  東経131度30分22秒

<標高、位置>  舞鶴城城堀緑地公園は
標高 数 m
 北緯32度07分20秒  東経131度30分17秒

<標高、位置>  高鍋城(舞鶴城)の本丸跡は
標高 約50 m
 北緯32度07分22秒  東経131度30分04秒

<標高、位置>  舞鶴城の敷地内にある高鍋町歴史総合資料館は
標高 約10 m
 北緯32度07分20秒  東経131度30分09秒

<標高、位置>  宮崎県立 高鍋農業高校は
標高 数 m
 北緯32度07分25秒  東経131度30分15秒


 「火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字高鍋町 (たかなべまち) 608 にあります。
地元では「荒神さん」と呼 (よ)ばれています。 火の神様です。 高鍋町にたびたび大火があり、それを避 (さ)けるために火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)が建立 (こんりゅう)されました。 御祭神は火産霊神(ホムスビノカミ)です。 夏祭りでは高鍋町中心商店街に多くの夜店が並 (なら)び、舞台 (ぶたい)もできます。 お神輿 (みこし)、太鼓台 (たいこだい)、子供神輿 (みこし)が商店街を練 (ね)り歩きます。 境内 (けいだい)にある大クスノキは高鍋町郷土の名木に指定されています。 推定樹齢は約200年、樹高は約25 m 、幹周は約670 cm です。

 「八坂神社」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字高鍋町 (たかなべまち) 528 にあります。

 「最後の連合艦隊司令長官であった小沢治三郎 (小澤治三郎)の生家」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字高鍋町 (たかなべまち) にあります。

  「高鍋町立 高鍋図書館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 南高鍋 551 にあります。

 「舞鶴城城堀緑地公園」が県立高鍋農業高校のそばにあります。

 「宮崎県立 高鍋農業高等学校」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 1339-2 にあります。
1903年4月に児湯郡立 高鍋農業校として設立されました。 校訓は研学修技、勤労興産、礼節敬愛、感恩報謝です。 過去の名称は児湯郡立高鍋農業校、宮崎県立高鍋農業校、宮崎県立高鍋高等学校農業部でした。

 「高鍋城跡(舞鶴城跡、舞鶴公園)」は宮崎県児湯郡高鍋町大字上江1345にあります。
高鍋城跡(舞鶴城跡、舞鶴公園)では桜祭りが開かれます。 園内の桜は約1000本のソメイヨシノと山桜があり、城の石垣 (いしがき)、階段などと調和して見事な景観を楽しめます。
高鍋城は説明板から、
「沿革」
  もと財部城といったが、後、高鍋城に改め通常は舞鶴城と呼ばれている。
 平安時代中期(斉衛年間 854年−857年)土持氏の所有となり、在来の山城を補修し、ここにおることおよそ600年に及んだ。
 長禄元年(1457年)伊東氏の所有となり、その48城の一つとして、武将 落合民部これを守った。 およそ120年の後、天正5年伊東氏を破り島津氏の所有となった。 後 天正15年(1587年)島津氏は豊臣秀吉に降伏し、同年7月秋月氏の居城となり約280年、明治の廃藩に至るまで続いた。
 寛文9年(1669年)6月、秋月氏3代藩主種信「財部」を「高鍋」と改め居城の修復に着手、岩坂門、石垣、城堀、大手門、本丸など数年を要して完成、近世の城の様式を備えるに至った。
「構造」
 天然の要害を巧みに利用し丘の中腹に心臓部の本丸を設け一段下がった平地を二の丸とし、更に下ったところを三の丸とし、北、南、東を堀で区切り、西は背後の山に野首掘切りを設けた。
「史跡」
 旧城内は、現在舞鶴公園として整備せられ、舞鶴公園、護国神社、石垣、堀、国指定の天然記念物の「高鍋大楠(くすのき)」をはじめ、次のような社寺や建造物の跡、各種記念碑など史跡が多い。
天然記念物1、社寺跡8、歌碑2、建造物の跡12、各種記念碑11 合計34。
 「高鍋藩 (秋月藩)」は1代は種長、2代は種春、3代は種信、4代は種政、5代は種弘、6代は種美、7代は種茂、8代は種徳、9代は種任、10代は種殷です。 高鍋藩 (秋月藩)は宮崎県児湯郡の東部 (高鍋町、木城町、川南町、都農町、日向市の美々津)と串間市、宮崎市 (瓜生野、倉岡の1部)、国富町 (木脇)を持っていました。 外様 (とざま)です。 藩庁は高鍋城 (舞鶴城、高鍋町)で高鍋は初期は財部 (たからべ)と呼 (よ)ばれていました。 秋月は福岡県の筑前国を領有していました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)のときに島津とともに秀吉軍と戦いましたが、その後、秀吉に恭順 (きょうじゅん)して、日向国 串間 (3万石)に移封されました。 1600年 (慶長5年)関ヶ原の戦いのとき秋月種長は西軍に属して大垣城を守っていましたが、9月15日の関ヶ原の戦いの本戦で、西軍が負けると東軍に属しました。 それで所領を安堵 (あんど)されました。 1604年 (慶長9年)に居城を串間から財部城 (高鍋城)に移しました。 3代秋月種信は1673年に財部 (たからべ)から高鍋に地名を変えました。 4代種政は1689年に弟 (種封)に3000石を分け与えたため、以後高鍋藩は2万7000石となりました。 江戸中期に6代種美の次男は米沢藩 (上杉 氏)に入り、名君 上杉鷹山 (ようざん)となりました。 その兄の7代種茂も高鍋藩の名君となり、1778年 (安永7年)に藩校 明倫堂 (めいりんどう)を開校しました。 秋月は10代のときに明治時代になりました。 1871年 (明治4年)に廃藩置県で高鍋県となりました。 その後に美々津県、宮崎県、鹿児島県、宮崎県になりました。


写真A: 北を見たものです。 左は舞鶴公園 (舞鶴城)です。 右奥に県立 高鍋農業高校が見えます。



写真B: 右に高鍋農業高校の校舎が見えます。 左は舞鶴公園です。



写真C: 北東を見たものです。 高鍋農業高校のグラウンド、体育館、校舎などがあります。



写真D: 高鍋農業高校の南側の道路を先 (東)へ進みます。



写真E: 東を見たものです。 ここは三叉路 (さんさろ)になっています。 左に進むと火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)、最後の連合艦隊司令長官 小沢治三郎の生家があります。 右に進むと八坂神社があります。



写真F: 北を見たものです。 左が最後の連合艦隊司令長官 小沢治三郎の生家です。 火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)は先 (北)にあります。



写真G: 最後の連合艦隊司令長官 小沢治三郎の生家です。 西を見たものです。



写真H: 南を見たものです。 先 (南)に進むと八坂神社があります。



写真I: 北西を見たものです。 古い歴史のある建物があります。



写真J: 「洋服のお直 (なお)し、おはり子 tsun」、「駐車場は2軒隣の1番・6番です。→」と書いてあります。



写真K: 北を見たものです。 火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)の近くです。



写真L: 北西を見たものです。 左に火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)の一の鳥居 (とりい)と二の鳥居が見えます。 奥に拝殿もあります。



写真M: 西を見たものです。 火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)の石灯籠、駐車場、一の鳥居 (とりい)、二の鳥居、拝殿もあります。



写真N: 右に「参拝者駐車場」と書いてあります。
「火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字高鍋町 (たかなべまち) 608 にあります。
地元では「荒神さん」と呼 (よ)ばれています。 火の神様です。 高鍋町にたびたび大火があり、それを避 (さ)けるために火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)が建立 (こんりゅう)されました。 御祭神は火産霊神(ホムスビノカミ)です。 夏祭りでは高鍋町中心商店街に多くの夜店が並 (なら)び、舞台 (ぶたい)もできます。 お神輿 (みこし)、太鼓台 (たいこだい)、子供神輿 (みこし)が商店街を練 (ね)り歩きます。 境内 (けいだい)にある大クスノキは高鍋町郷土の名木に指定されています。 推定樹齢は約200年、樹高は約25 m 、幹周は約670 cm です。



写真O: 南西を見たものです。



写真P: 南を見たものです。 火産霊神社の近くです。



写真Q: 火産霊神社の参道です。



写真R: 石灯籠 (いしどうろう)があります。



写真S: もう1つの石灯籠 (いしどうろう)です。



写真T: 左右にコンクリート製のものを多く並 (なら)べてあります。 二の鳥居の左に手水舎 (ちょうずや)があります。



写真U: 一の鳥居 (とりい)に「大正3年12月吉祥日 建立 (こんりゅう)」と彫 (ほ)ってあります。



写真V: 一の鳥居 (とりい)に「大正3年12月吉祥日 建立 (こんりゅう)」と彫 (ほ)ってあります。



写真W: 高鍋町 高鍋町 (たかなべまち)にある火産霊神社です。




写真X: 火産霊神社の拝殿が見えます。 その右は社務所と思われます。 左端は手水舎 (ちょうずや)です。



写真Y: 火産霊神社の手水舎 (ちょうずや)、拝殿、参道です。 奥に大きな木があります。



写真Z: 左上は二の鳥居 (とりい)です。



写真AA: 南を見たものです。 手水舎 (ちょうずや)と右の石碑 (せきひ)です。 右に外灯もあります。



写真AB: 火産霊神社の手水鉢 (ちょうずばち)です。 「奉納」と書いてあります。 この手水鉢 (ちょうずばち)には水がありません。 その代わりに2つの御幣 (ごへい)があります。



写真AC: 「自祓い用 (じばらいよう)祓串 (はらいくし)、只今 (ただいま)、手水が使えませんので祓串を手に取り自分の左・右・左と3回お祓い下さい。 火産霊神社」と書いてあります。 手水鉢 (ちょうずばち)の中です。



写真AD: 東を見たものです。



写真AE: 「修改築記念碑 (ひ)」があります。
 明治45年に建立 (こんりゅう)された火産霊神社の御神殿・拝殿は度重 (たびかさ)なる風水害や白アリの被害をうけ、崩落寸前の状態であった。 平成23年修築委員会が発足し寄付を集め、また氏子 (うじこ)住民から負担金の協力を得て、2500万円の資金が確保され、平成25年修改築工事を行 (おこな)うに至 (いた)った。 ここに記念碑 (ひ)を建立 (こんりゅう)し後世への証 (あかし)とする。
平成25年6月吉日 火産霊神社 修築委員会
と書いてあります。



写真AF: 火産霊命神社の拝殿です。 左奥に大きな木があります。 西を見たものです。
「火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字高鍋町 (たかなべまち) 608 にあります。
地元では「荒神さん」と呼 (よ)ばれています。 火の神様です。 高鍋町にたびたび大火があり、それを避 (さ)けるために火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)が建立 (こんりゅう)されました。 御祭神は火産霊神(ホムスビノカミ)です。 夏祭りでは高鍋町中心商店街に多くの夜店が並 (なら)び、舞台 (ぶたい)もできます。 お神輿 (みこし)、太鼓台 (たいこだい)、子供神輿 (みこし)が商店街を練 (ね)り歩きます。 境内 (けいだい)にある大クスノキは高鍋町郷土の名木に指定されています。 推定樹齢は約200年、樹高は約25 m 、幹周は約670 cm です。



写真AG: 北西を見たものです。 社務所と思われます。



写真AH: 社務所と左の拝殿です。



写真AI: 宮崎県 児湯郡 高鍋町 高鍋町 (たかなべまち)にある火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)です。



写真AJ: 南西を見たものです。



写真AK: 境内 (けいだい)に高い木があります。



写真AL: 左に広場があります。



写真AM: 南を見たものです。 広場があります。 遠くに山が見えます。



写真AN: 南東を見たものです。 手水舎 (ちょうずや)、外灯、左端に二の鳥居 (とりい)があります。



写真AO: 東を見たものです。 参道です。



写真AP: 北東を見たものです。



写真AQ: 北を見たものです。



写真AR: 左は社務所です。 北西を見たものです。



写真AS: 拝殿の中です。 「火産霊神社」と彫 (ほ)ってある額 (がく)があります。 右にお神輿 (みこし)を置いてありました。 手前はお神輿を担 (かつ)ぐ棒 (ぼう)です。



写真AT: 拝殿の中。



写真AU: 拝殿の中です。 左下はお賽銭箱 (さいせんばこ)です。



写真AV: 鈴 (すず)があります。



写真AW: お賽銭箱 (さいせんばこ)にしめ縄 (なわ)、御幣 (ごへい)があります。



写真AX: 鈴紐 (ひも)の下部です。 「奉納」と書いてあります。



写真AY: しめ縄 (なわ)があります。



写真AZ: 横木の端 (はし)に象の彫り物 (ほりもの)があります。 他の彫り物も見えます。



写真BA: 拝殿の屋根裏の様子 (ようす)が分かります。



写真BB: 右は社務所です。



写真BC: 「おみくじ」と書いてあります。 御神籤 (おみくじ)販売機です。



写真BD: 拝殿の北側面が見えます。 右は社務所です。



写真BE: 屋根裏も見えます。



写真BF: 「ご用の方へ、お手数ですが、左記までご連絡をお願い致 (いた)します。 火産霊神社 宮司」と書いてあります。



写真BG: 奥に本殿の側面が見えます。 手前は拝殿の側面です。



写真BH: 側面の上部です。 南西を見たものです。



写真BI: 南を見たものです。 拝殿の中のお神輿 (みこし)が見えます。



写真BJ: 北を見たものです。 右は社務所です。



写真BK: 北西を見たものです。



写真BL: 西を見たものです。



写真BM: 南を見たものです。 本殿の北側面が見えます。



写真BN: 本殿の屋根には外切りの千木 (ちぎ)と5本の円筒形の鰹木 (かつおぎ)があります。



写真BO: 本殿の屋根には外切りの千木 (ちぎ)と5本の円筒形の鰹木 (かつおぎ)があります。



写真BP: 境内 (けいだい)に大きな楠 (くすのき)があります。 右に赤い末社があります。 左端は本殿です。 南を見たものです。
境内 (けいだい)にある大クスノキは高鍋町郷土の名木に指定されています。 推定樹齢は約200年、樹高は約25 m 、幹周は約670 cm です。



写真BQ: 大きな木の中部です。
境内 (けいだい)にある大クスノキは高鍋町郷土の名木に指定されています。 推定樹齢は約200年、樹高は約25 m 、幹周は約670 cm です。



写真BR: 大きな木の上部です。
境内 (けいだい)にある大クスノキは高鍋町郷土の名木に指定されています。 推定樹齢は約200年、樹高は約25 m 、幹周は約670 cm です。



写真BS: 大きな木の上部。
境内 (けいだい)にある大クスノキは高鍋町郷土の名木に指定されています。 推定樹齢は約200年、樹高は約25 m 、幹周は約670 cm です。



写真BT: 祠 (ほこら)が2つあります。 西を見たものです。



写真BU: 北東を見たものです。



写真BV: 本殿の屋根には外切りの千木 (ちぎ)と5本の円筒形の鰹木 (かつおぎ)があります。



写真BW: 本殿の中部です。



写真BX: 南東を見たものです。



写真BY: 境内 (けいだい)にある大きな楠 (くすのき)の根元 (ねもと)です。 足と足の指のような形をしています。



写真BZ: 5つの石造物があります。 左は赤い末社です。 南西を見たものです。



写真CA: 西を見たものです。 末社です。 しめ縄が見えます。



写真CB: 末社の中です。



写真CC: 手水鉢 (ちょうずばち)があります。 東を見たものです。



写真CD: 東を見たものです。 拝殿の南側面も見えます。



写真CE: 火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)の境内 (けいだい)です。



写真CF: 東を見たものです。



写真CG: 古い手水鉢 (ちょうずばち)です。



写真CH: 南東を見たものです。



写真CI: 木の下部です。



写真CJ: 木の中部です。



写真CK: 木の上部です。



写真CL: 南から見た本殿と拝殿です。



写真CM: 拝殿の南側面です。



写真CN: 拝殿の南側面。



写真CO: 東を見たものです。 外灯があります。



写真CP: 外灯です。



写真CQ: 「斎藤林業」とベンチに書いてあります。



写真CR: 南を見たものです。 広場があります。



写真CS: 南東を見たものです。



写真CT: 東を見たものです。 手水舎 (ちょうずや)も見えます。



写真CU: 北東を見たものです。



写真CV: 北を見たものです。 左は拝殿、その奥は社務所です。



写真CW: 南東から見た拝殿です。



写真CX: 拝殿の下部です。 左にテントが見えます。



写真CY: 西を見たものです。 赤い末社、大きな木、外灯も見えます。



写真CZ: 境内 (けいだい)にある大きな木の中部です。



写真DA: 大きな木の上部です。



写真DB: 東を見たものです。 参道です。



写真DC: 手水舎 (ちょうずや)、鳥居 (とりい)が見えます。



写真DD: 一の鳥居 (とりい)のそばから東を見たものです。



写真DE: 南を見たものです。 火産霊神社 (ほむすびじんじゃ)の近くです。 先に最後の連合艦隊司令長官 小沢治三郎の生家、八坂神社があります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)