新田八幡神社 (新田神社) 、山之坊神社 (旧 郷社、旧称 正八幡宮、新田神楽 (にゅうたかぐら)、九峯修行供養塔、新田八幡神社の「ハートの模様 (もよう)の石」と「ハートの形の石」、山之坊神社 (毘沙門天 (びしゃもんてん) 様)、竹渕地区集会所、忠霊塔、山之坊地区集会所)  (宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田)







<標高、位置>  新田八幡神社 (新田神社)は
標高 約20 m
 北緯32度04分51秒  東経131度25分28秒

<標高、位置>  山之坊神社 (毘沙門天 (びしゃもんてん)様)は
標高 約20 m
 北緯32度04分47秒  東経131度25分48秒

<標高、位置>  竹渕地区集会所 (たけぶちちくしゅうかいしょ)は
標高 約20 m
 北緯32度04分50秒  東経131度25分29秒

<標高、位置>  山之坊地区集会所は
標高 約20 m
 北緯32度04分46秒  東経131度25分48秒

<標高、位置>  県道18号線の新田八幡神社への「入り口」は
標高 約10 m
 北緯32度04分47秒  東経131度25分26秒


  「新田八幡神社 (新田神社)」は宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 10006番 にあります。
御祭神は彦火火出見尊 (ヒコホホデミノミコト、山幸彦)です。 創建は不祥です。 昔は正八幡宮と呼 (よ)ばれ新田郷の総鎮守でした。 本殿 (流造り)は6坪、拝殿 (流造り)は14坪です。 1577年 (天正5年)に島津によって都於郡城 (とのこおりじょう)が落城したときに、城主だった伊東が米良越えをして豊後 (大分県)の大友を頼 (たよ)って逃 (のが)れました。 新田八幡神社も通りました。 そのときの兵火で宝物、社殿、記録が焼失しました。 その後、この辺 (あた)りが島津の領地になり、島津が1607年 (慶長11年)に神殿を再興し、10石、祭祀料 (さいしりょう)、宮司の屋敷を寄贈しました。 新田郷の総鎮守でした。 明治4年に新田神社と改称 (かいしょう)して郷社になりました。 いつから始まったかは分かっていませんが、新田神楽 (かぐら)が伝わっています。 新富町の無形文化財となっています。 ヤマタノオロチ伝説の真剣で2匹 (ひき)の縄 (なわ)の蛇を切る「蛇切り」が見せ場です。 夏祭り (御神幸祭)も行われています。 その行列の先頭には「イブクロ」と呼 (よ)ばれる赤い面の男神、白い面の女神がいます。

 新田八幡神社にある「九峯修行供養塔」
日本九峰修行供養碑は佐土原の修験者(山伏ともいいます) 野田泉光院の日本九峰修行供養碑で、50歳代で1812年10月から約6年間、佐土原から出発して、全国を歩きました。 佐土原町 上田島に日本日本九峰修行供養碑と野田泉光院の墓 (大光寺そば。)があります。 新田八幡神社にある「九峯修行供養塔、文政 (江戸時代後期、1818年〜1830年)5年10月6日 建立 (こんりゅう)、修行者 大越家・・・」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)は時期的にこれと関係があるかもしれません。
泉光院は佐土原藩内 修験者 八代の頭領でした。
 野田泉光院の日本九峰とは(1) 英彦山 (2) 石鎚山 (3) 箕面山 (4) 金剛山 (5) 大峯山 (6) 熊野山 (7) 富士山 (8) 羽黒山 (9) 湯殿山 だと泉光院は言っていますが、実際はもっと多くの山に登りました。
 九州・・阿蘇山 太郎岳(多良岳)黒髪山 求菩提山(くぼてやま)、  山陰・・妙見山 大江山 三滝山(三岳山)、 山陽・・後山 瑜伽(ゆか)山、 近畿・・比叡山 朝熊(あさま)山 愛宕山、 北陸・・白山 石動山 立山、 東海・・光明山 秋葉山、 信越・・浅間山 米山、 関東・・行道山 中ノ岳(妙義) 八溝山 加波・足尾山 筑波山 鹿野(かのう)山、 奥羽・・月山 鳥海山 金華山 水晶山 にも野田泉光院は登りました。

 「竹渕地区集会所 (たけぶちちくしゅうかいしょ)」は宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 10011-7 にあります。

 「山之坊神社 (毘沙門天 様 (びしゃもんてんさま))」の隣 (とな)りにある「山之坊地区集会所」は宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 9382-3 にあります。


写真A: 県道18号線です。 南東を見たものです。 先に進むと国道10号に行きます。 ここは新富町 大字新田 字竹渕 (たけぶち)です。 ここから北に進んで新田八幡神社 (新田神社)に行きます。



写真B: 北西を見たものです。 右に進むと新田八幡神社 (新田神社)があります。 商店、右に掲示版 (けいじばん)があります。



写真C: ここは十字路になっています。



写真D: 商店に「食料品 タバコ 酒 プロパン」と書いてあります。



写真E: 十字路に掲示版 (けいじばん)があります。



写真F: 北を見たものです。 新田八幡神社 (新田神社)の一の鳥居 (とりい)と奥に二の鳥居が見えます。 奥は新田原台地になっています。
「新田八幡神社 (新田神社)」は宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 10006番 にあります。
御祭神は彦火火出見尊 (ヒコホホデミノミコト、山幸彦)です。 創建は不祥です。 昔は正八幡宮と呼 (よ)ばれ新田郷の総鎮守でした。 本殿 (流造り)は6坪、拝殿 (流造り)は14坪です。 1577年 (天正5年)に島津によって都於郡城 (とのこおりじょう)が落城したときに、城主だった伊東が米良越えをして豊後 (大分県)の大友を頼 (たよ)って逃 (のが)れました。 新田八幡神社も通りました。 そのときの兵火で宝物、社殿、記録が焼失しました。 その後、この辺 (あた)りが島津の領地になり、島津が1607年 (慶長11年)に神殿を再興し、10石、祭祀料 (さいしりょう)、宮司の屋敷を寄贈しました。 新田郷の総鎮守でした。 明治4年に新田神社と改称 (かいしょう)して郷社になりました。 いつから始まったかは分かっていませんが、新田神楽 (かぐら)が伝わっています。 新富町の無形文化財となっています。 ヤマタノオロチ伝説の真剣で2匹 (ひき)の縄 (なわ)の蛇を切る「蛇切り」が見せ場です。 夏祭り (御神幸祭)も行われています。 その行列の先頭には「イブクロ」と呼 (よ)ばれる赤い面の男神、白い面の女神がいます。



写真G: 十字路の掲示版 (けいじばん)です。



写真H: 「新田神社 春の大祭、新田神楽 (かぐら)の写真」のポスターがあります。 「新田神社例祭」のポスターもあります。
「竹渕 (たけぶち)地区集会所は 海抜 15.9 m 、新富町」と書いてあります。 津波対策の表示です。



写真I: 十字路のそばです。 南東を見たものです。



写真J: 新田八幡神社 (新田神社)の一の鳥居 (とりい)です。



写真K: 「鳥居奉納」と書いてある石碑 (せきひ)です。 一の鳥居 (とりい)のそばにあります。



写真L: 「鳥居奉納」と書いてあります。



写真M: 北に二の鳥居 (とりい)が見えます。 新田八幡神社 (新田神社)の参道です。



写真N: 北東を見たものです。



写真O: 東を見たものです。



写真P: 南東を見たものです。



写真Q: 南を見たものです。 一の鳥居 (とりい)です。



写真R: 内側から見た一の鳥居 (とりい)です。



写真S: 南西を見たものです。 左端に石碑 (せきひ)があります。



写真T: 西を見たものです。



写真U: 北西を見たものです。



写真V: 北を見たものです。



写真W: 新田八幡神社 (新田神社)の鎮守の森 (ちんじゅのもり)と二の鳥居 (とりい)です。 右に駐車場も見えます。 北を見たものです。
「新田八幡神社 (新田神社)」は宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 10006番 にあります。
御祭神は彦火火出見尊 (ヒコホホデミノミコト、山幸彦)です。 創建は不祥です。 昔は正八幡宮と呼 (よ)ばれ新田郷の総鎮守でした。 本殿 (流造り)は6坪、拝殿 (流造り)は14坪です。 1577年 (天正5年)に島津によって都於郡城 (とのこおりじょう)が落城したときに、城主だった伊東が米良越えをして豊後 (大分県)の大友を頼 (たよ)って逃 (のが)れました。 新田八幡神社も通りました。 そのときの兵火で宝物、社殿、記録が焼失しました。 その後、この辺 (あた)りが島津の領地になり、島津が1607年 (慶長11年)に神殿を再興し、10石、祭祀料 (さいしりょう)、宮司の屋敷を寄贈しました。 新田郷の総鎮守でした。 明治4年に新田神社と改称 (かいしょう)して郷社になりました。 いつから始まったかは分かっていませんが、新田神楽 (かぐら)が伝わっています。 新富町の無形文化財となっています。 ヤマタノオロチ伝説の真剣で2匹 (ひき)の縄 (なわ)の蛇を切る「蛇切り」が見せ場です。 夏祭り (御神幸祭)も行われています。 その行列の先頭には「イブクロ」と呼 (よ)ばれる赤い面の男神、白い面の女神がいます。



写真X: 北西を見たものです。 早期水稲が実 (みの)っていました。



写真Y: 西を見たものです。 水田、民家、右に車道が見えます。



写真Z: 神社の右 (東)に竹渕地区集会所 (たけぶちちくしゅうかいしょ)の建物が見えます。



写真AA: 北東を見たものです。 左に竹渕地区集会所が見えます。



写真AB: 東を見たものです。 畑と民家があります。



写真AC: 新田八幡神社の駐車場です。 二の鳥居 (とりい)のそばにあります。 その手前に、東西に車道が通っています。



写真AD: 東を見たものです。 左に竹渕地区集会所の建物が見えます。 山之坊神社へは先に進みます。



写真AE: 西を見たものです。 新田八幡神社の前の車道です。



写真AF: 奥に新田八幡神社 (新田神社)の社殿が見えます。 左端は手水舎 (ちょうずや)です。 階段、石垣 (いしがき)もあります。



写真AG: 新田八幡神社の手水舎 (ちょうずや)、石垣 (いしがき)、石の柵 (さく)、杉の木、階段などが見えます。



写真AH: 石垣 (いしがき)、柵 (さく)などです。



写真AI: 拝殿、参道、階段、石垣 (いしがき)、柵 (さく)、右奥に青色の滑り台 (すべりだい)が見えます。



写真AJ: 右は駐車場です。 東を見たものです。



写真AK: 「玉垣奉納、昭和17年12月」と書いてある石碑 (せきひ)があります。 玉垣とは石垣 (いしがき)です。



写真AL: 玉垣 (石垣 (いしがき))です。



写真AM: 新田八幡神社に遊具の滑り台 (すべりだい)があります。 東を見たものです。



写真AN: 右の木にしめ縄 (なわ)があります。



写真AO: 参道です。 左に手ぬぐいを掛 (か)ける物があります。



写真AP: 新田八幡神社の手水舎 (ちょうずや)です。



写真AQ: 手水舎 (ちょうずや)の下部です。



写真AR: 手水鉢 (ちょうずばち)です。 「社紋、奉納」と書いてあります。 上に竹があります。 柄杓 (ひしゃく)、水道の蛇口 (じゃぐち)もあります。



写真AS: 「昭和10年7月 新田互親会」と書いてある石碑 (せきひ)があります。



写真AT: 「奉納 吉野工務店」と書いてある手ぬぐいを掛 (か)ける所があります。 左は手水舎 (ちょうずや)です。



写真AU: 南西を見たものです。



写真AV: 南を見たものです。 二の鳥居 (とりい)が見えます。



写真AW: 石灯籠 (いしどうろう)、石塔、階段、手すり、拝殿、石垣 (いしがき)などがあります。



写真AX: 階段の上の方です。



写真AY: 木の上部です。



写真AZ: 見上 (あ)げたものです。



写真BA: 石灯籠 (いしどうろう)の左に狛犬 (こまいぬ)があります。



写真BB: こちらにもコマイヌがあります。



写真BC: 新田八幡神社のコマイヌです。 左前足の下に玉があります。



写真BD: コマイヌの台座に「奉納」と書いてあります。



写真BE: 「世界人類が平和でありますように。」の標柱があります。



写真BF: 南を見たものです。 右奥に二の鳥居 (とりい)があります。



写真BG: コマイヌの台座に「寄贈 平成7年7月吉日」と書いてあります。



写真BH: 石塔に「明和 (江戸中期、1764年〜1772年) 8年7月、奉寄進」と彫 (ほ)ってあります。



写真BI: 石塔が並 (なら)んでいます。



写真BJ: 石造物があります。



写真BK: 木にしめ縄 (なわ)を巻いてあります。 御神木と思われます。



写真BL: 神木の中部です。



写真BM: 神木の上部です。



写真BN: 見上 (あ)げたものです。



写真BO: 木の最上部です。



写真BP: 右端は神木です。 南東を見たものです。



写真BQ: 東を見たものです。 モウソウダケの竹林もあります。



写真BR: 北を見たものです。 左は拝殿と石灯籠 (いしどうろう)です。 竹林もあります。



写真BS: 「新田八幡神社 (新田神社)」は宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 10006番 にあります。
御祭神は彦火火出見尊 (ヒコホホデミノミコト、山幸彦)です。 創建は不祥です。 昔は正八幡宮と呼 (よ)ばれ新田郷の総鎮守でした。 本殿 (流造り)は6坪、拝殿 (流造り)は14坪です。 1577年 (天正5年)に島津によって都於郡城 (とのこおりじょう)が落城したときに、城主だった伊東が米良越えをして豊後 (大分県)の大友を頼 (たよ)って逃 (のが)れました。 新田八幡神社も通りました。 そのときの兵火で宝物、社殿、記録が焼失しました。 その後、この辺 (あた)りが島津の領地になり、島津が1607年 (慶長11年)に神殿を再興し、10石、祭祀料 (さいしりょう)、宮司の屋敷を寄贈しました。 新田郷の総鎮守でした。 明治4年に新田神社と改称 (かいしょう)して郷社になりました。 いつから始まったかは分かっていませんが、新田神楽 (かぐら)が伝わっています。 新富町の無形文化財となっています。 ヤマタノオロチ伝説の真剣で2匹 (ひき)の縄 (なわ)の蛇を切る「蛇切り」が見せ場です。 夏祭り (御神幸祭)も行われています。 その行列の先頭には「イブクロ」と呼 (よ)ばれる赤い面の男神、白い面の女神がいます。



写真BT: 拝殿の左は社務所と思われます。



写真BU: 西を見たものです。 右は社務所です。 左にコマイヌがあります。



写真BV: 2つのコマイヌが見えます。 南西を見たものです。



写真BW: 中央は社務所です。



写真BX: 社務所に「丸に十の字の島津の家紋 (かもん)」があります。 社紋 (しゃもん)と思われます。



写真BY: 社務所に「ココから照 (て)ラス!」のポスターがあります。



写真BZ: 南を見たものです。 右寄りに手水鉢 (ちょうずばち)があります。 左端はコマイヌです。



写真CA: 南西を見たものです。 物置きがあります。 奥は民家です。



写真CB: 手水鉢 (ちょうずばち)があります。 水道もあります。



写真CC: 古い手水鉢 (ちょうずばち)があります。



写真CD: 手前に物を燃 (も)やす所があります。



写真CE: 二の鳥居 (とりい)の方 (南)を見たものです。



写真CF: 拝殿の近くの石灯籠 (いしどうろう)。



写真CG: 拝殿の近くのもう1つの石灯籠 (いしどうろう)です。 奥は社務所です。



写真CH: 拝殿の上部です。 しめ縄 (なわ)、鈴、鈴紐 (すずひも)があります。 横木の端 (はし)に象の彫り物 (ほりもの)があります。 新田八幡神社 (新田神社)です。



写真CI: 拝殿です。



写真CJ: 拝殿に鈴と照明があります。



写真CK: 鈴紐 (すずひも)の下部です。 奥に「奉納」と書いてあるお賽銭箱 (さいせんばこ)があります。



写真CL: 拝殿の中です。 「社紋 (しゃもん)、新田神社」、「新田神楽 (かぐら)」と書いてあります。 太鼓 (たいこ)もあります。



写真CM: 拝殿の中。 右上に新田神楽 (にゅうたかぐら)の写真があります。



写真CN: 境内 (けいだい)にあるモウソウダケの竹林です。



写真CO: 竹の根が地面に見えます。



写真CP: 溝 (みぞ)があります。 北を見たものです。



写真CQ: 左は本殿です。



写真CR: 左は拝殿、右は本殿です。



写真CS: 新田八幡神社の本殿です。 一段高いところにあります。 裏は山になっています。 石垣 (いしがき)もあります。 北西を見たものです。



写真CT: 本殿に登る階段も見えます。



写真CU: 本殿の上部です。 屋根に千木 (ちぎ)や鰹木 (かつおぎ)はありません。 新田八幡神社 (新田神社)です。



写真CV: 本殿の下部です。 上に彫刻 (ちょうこく)があります。



写真CW: 左は拝殿、右上は本殿です。 西を見たものです。



写真CX: 南西を見たものです。 拝殿の側面も見えます。



写真CY: 右下の地面にしめ縄 (なわ)をしてあります。 そこに「ハートの模様 (もよう)の石」と「ハートの形の石」があります。



写真CZ: 南を見たものです。 右は拝殿です。



写真DA: 境内 (けいだい)です。



写真DB: 「ハートの模様 (もよう)の石」と「ハートの形の石」です。 新田八幡神社 (新田神社)です。



写真DC: 「ハートの模様 (もよう)の石」と「ハートの形の石」です。



写真DD: 境内 (けいだい)。



写真DE: 境内 (けいだい)の地面です。



写真DF: 北を見たものです。 左は社務所、右は拝殿です。



写真DG: 社務所と拝殿の間の下部です。



写真DH: 北を見たものです。 奥を見たものです。 石垣 (いしがき)があります。



写真DI: 北を見たものです。 左上は社務所です。



写真DJ: 社務所の北側面です。



写真DK: 本殿のそばの様子 (ようす)です。



写真DL: 赤い本殿の下部です。



写真DM: 本殿の中部です。



写真DN: 本殿の上部です。 屋根裏の様子 (ようす)が分かります。



写真DO: 見上 (あ)げたものです。



写真DP: 階段の上部と本殿です。 本殿の横木の端 (はし)に象の彫刻 (ちょうこく)があります。



写真DQ: 本殿に上 (あ)がる階段です。 東を見たものです。



写真DR: 本殿の近くです。



写真DS: 左は社務所、右は拝殿です。 北を見たものです。



写真DT: 南西を見たものです。 左に手水鉢 (ちょうずばち)、物置き、右端は社務所です。



写真DU: 北を見たものです。 社務所の西側面です。



写真DV: 社務所の西側面の下部です。



写真DW: 北西を見たものです。 少し高いところに祠 (ほこら)があります。



写真DX: 北西を見たものです。 右に祠 (ほこら)があります。



写真DY: 西を見たものです。



写真DZ: 南西を見たものです。 民家があります。



写真EA: 社殿の左手にある祠 (ほこら)と石碑 (せきひ)、石塔です。 北を見たものです。 奥は少し高くなっています。



写真EB: 祠 (ほこら)などの上の方です。



写真EC: 祠 (ほこら)のそばの木の上部です。



写真ED: 「九峯修行供養塔、文政 (江戸時代後期、1818年〜1830年)5年10月6日 建立 (こんりゅう)、修行者 大越家・・・」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)があります。 供え物 (そなえもの)があります。
新田八幡神社にある「九峯修行供養塔」
日本九峰修行供養碑は佐土原の修験者(山伏ともいいます) 野田泉光院の日本九峰修行供養碑で、50歳代で1812年10月から約6年間、佐土原から出発して、全国を歩きました。 佐土原町 上田島に日本日本九峰修行供養碑と野田泉光院の墓 (大光寺そば。)があります。 新田八幡神社にある「九峯修行供養塔、文政 (江戸時代後期、1818年〜1830年)5年10月6日 建立 (こんりゅう)、修行者 大越家・・・」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)は時期的にこれと関係があるかもしれません。
泉光院は佐土原藩内 修験者 八代の頭領でした。
 野田泉光院の日本九峰とは(1) 英彦山 (2) 石鎚山 (3) 箕面山 (4) 金剛山 (5) 大峯山 (6) 熊野山 (7) 富士山 (8) 羽黒山 (9) 湯殿山 だと泉光院は言っていますが、実際はもっと多くの山に登りました。
 九州・・阿蘇山 太郎岳(多良岳)黒髪山 求菩提山(くぼてやま)、  山陰・・妙見山 大江山 三滝山(三岳山)、 山陽・・後山 瑜伽(ゆか)山、 近畿・・比叡山 朝熊(あさま)山 愛宕山、 北陸・・白山 石動山 立山、 東海・・光明山 秋葉山、 信越・・浅間山 米山、 関東・・行道山 中ノ岳(妙義) 八溝山 加波・足尾山 筑波山 鹿野(かのう)山、 奥羽・・月山 鳥海山 金華山 水晶山 にも野田泉光院は登りました。



写真EE: 「九峯修行供養塔、文政 (江戸時代後期、1818年〜1830年)5年10月6日 建立 (こんりゅう)、修行者 大越家・・・」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)です。



写真EF: 「九峯修行供養塔、文政 (江戸時代後期、1818年〜1830年)5年10月6日 建立 (こんりゅう)、修行者 大越家・・・」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)。



写真EG: 「九峯修行供養塔、文政 (江戸時代後期、1818年〜1830年)5年10月6日 建立 (こんりゅう)、修行者 大越家・・・」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)。



写真EH: 「九峯修行供養塔、文政 (江戸時代後期、1818年〜1830年)5年10月6日 建立 (こんりゅう)、修行者 大越家・・・」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)があります。



写真EI: 「九峯修行供養塔、文政 (江戸時代後期、1818年〜1830年)5年10月6日 建立 (こんりゅう)、修行者 大越家・・・」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)です。



写真EJ: 「九峯修行供養塔、文政 (江戸時代後期、1818年〜1830年)5年10月6日 建立 (こんりゅう)、修行者 大越家・・・」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)。



写真EK: 「九峯修行供養塔、文政 (江戸時代後期、1818年〜1830年)5年10月6日 建立 (こんりゅう)、修行者 大越家・・・」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)です。



写真EL: 右は九峯修行供養塔です。



写真EM: 少し高いところに祠 (ほこら)があります。



写真EN: 社殿の左手にある祠 (ほこら)です。 末社と思われます。



写真EO: 西を見たものです。



写真EP: 祠 (ほこら)の西にある石塔などです。



写真EQ: 石塔があります。



写真ER: 石塔のそばの木です。



写真ES: 木の中部です。



写真ET: 木の上部です。



写真EU: 中央の物に「常夜灯」と彫 (ほ)ってあります。 左の物も同様です。 奥に石があります。



写真EV: 「常夜灯」と彫 (ほ)ってあります。



写真EW: 石もあります。



写真EX: 祠 (ほこら)です。 末社と思われます。



写真EY: 末社の下部です。



写真EZ: 中央奥に九峯修行供養塔が見えます。 北東を見たものです。



写真FA: 野草の「ツユクサの花」が咲いていました。



写真FB: 左は末社、右は社務所です。



写真FC: 東を見たものです。



写真FD: 南東を見たものです。



写真FE: 南を見たものです。



写真FF: 脇 (わき)の道です。



写真FG: 東を見たものです。 中央は二の鳥居 (とりい)を側面から見たものです。
これから先に進んで「山之坊神社」に行きます。



写真FH: 「海抜 15.9 m、津波に注意!! 新富町」と書いてあります。



写真FI: 新田八幡神社の東隣 (とな)りにある「竹渕地区集会所 (たけぶちちくしゅうかいしょ)」です。 東を見たものです。
「竹渕地区集会所 (たけぶちちくしゅうかいしょ)」は宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 10011-7 にあります。



写真FJ: ベンチ、物置きもあります。



写真FK: 南を見たものです。



写真FL: 右は新田八幡神社の境内 (けいだい)です。



写真FM: 西を見たものです。 新田八幡神社です。



写真FN: 東から見た新田八幡神社です。



写真FO: 左は新田八幡神社です。



写真FP: 民家があります。 右端は竹渕地区集会所 (たけぶちちくしゅうかいしょ)です。



写真FQ: 竹渕地区集会所 (たけぶちちくしゅうかいしょ)です。



写真FR: 「竹渕地区集会所 (たけぶちちくしゅうかいしょ)」と書いてあります。
「竹渕地区集会所 海抜15.9 m 、新富町」と書いてあります。



写真FS: 南西を見たものです。 ベンチがあります。 右上は新田八幡神社です。



写真FT: 「地域の子は 地域のみんなで育てよう。 新富町青少年育成町民会議」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真FU: 「ふれあい・いきいきサロン 竹渕いきいき会、新富町社会福祉協議会」と書いてある看板 (かんばん)があります。 奥は竹渕地区集会所です。



写真FV: 「国指定史跡 新田原古墳群」の説明板があります。 奥は竹渕地区集会所です。



写真FW: 「国指定史跡 新田原古墳群」の説明板です。



写真FX: 「国指定史跡 新田原古墳群」の説明板。



写真FY: 観世音菩薩のお堂です。 奥は竹渕地区集会所です。 北を見たものです。



写真FZ: 「観世音菩薩」と書いてあります。



写真GA: 野草の「鬼百合 (おにゆり)の花」が咲いていました。



写真GB: 北を見たものです。 左奥に溜池 (ためいけ)の堤防と思われるものが見えます。 民家があります。 奥は新田原台地です。
先に進んで「山之坊神社」に行きます。



写真GC: 「ニラの畑」があります。



写真GD: 墓地があります。



写真GE: 墓地に「忠霊塔」もあります。



写真GF: 「忠霊塔」です。
靖国 (やすくに)のみたまここに眠る・・・
と彫 (ほ)ってあります。



写真GG: 「忠霊塔」。
靖国 (やすくに)のみたまここに眠る・・・
と彫 (ほ)ってあります。



写真GH: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。



写真GI: 南西を見たものです。



写真GJ: 南を見たものです。



写真GK: 南東を見たものです。



写真GL: 先に進んで山之坊神社に行きます。



写真GM: 南西を見たものです。 民家があります。



写真GN: 東を見たものです。



写真GO: ヘリコプターが飛んでいました。 新田原基地のヘリコプターかもしれません。 北を見たものです。



写真GP: 山之坊地区集会が見えます。 北を見たものです。 手前は防火水槽 (そう)です。
「山之坊神社」は山之坊地区集会所の奥 (北)にあります。
「山之坊神社 (毘沙門天 様 (びしゃもんてんさま))」の隣 (とな)りにある「山之坊地区集会所」は宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 9382-3 にあります。



写真GQ: 南東を見たものです。 見えている塀 (へい)の所を左に曲がって「山之坊神社」に行きます。 左手前は水田です。



写真GR: 左端は山之坊地区集会所です。



写真GS: この道を進んで山之坊神社に行きます。 北を見たものです。



写真GT: 北を見たものです。 左端は山之坊地区集会所です。 祠 (ほこら)があります。



写真GU: 奥に民家があります。



写真GV: 山之坊神社の末社と思われます。 中に像と供え物 (そなえもの)があります。



写真GW: 南を見たものです。 山之坊地区集会所です。
「山之坊神社 (毘沙門天 様 (びしゃもんてんさま))」の隣 (とな)りにある「山之坊地区集会所」は宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 9382-3 にあります。



写真GX: 「山之坊地区集会所」と書いてあります。



写真GY: 北を見たものです。 これが「山之坊神社」です。
地元では毘沙門天 (びしゃもんてん)様と呼 (よ)ばれています。



写真GZ: 山之坊神社の境内 (けいだい)です。 北西を見たものです。



写真HA: 西を見たものです。 民家があります。



写真HB: 南西を見たものです。 左は山之坊地区集会所です。



写真HC: 山之坊地区集会所。



写真HD: 南東を見たものです。 末社と右は山之坊地区集会所です。



写真HE: 東を見たものです。 手前は山之坊神社の境内 (けいだい)です。



写真HF: 北東を見たものです。



写真HG: 山之坊神社の社殿です。 地元では毘沙門天 (びしゃもんてん)様と呼 (よ)ばれています。



写真HH: 山之坊神社 (毘沙門天 (びしゃもんてん)様)です。 しめ縄 (なわ)があります。供え物 (そなえもの)も見えます。 石塔が2つ見えます。



写真HI: 山之坊神社 (毘沙門天 (びしゃもんてん)様)の社殿です。 しめ縄 (なわ)、供え物 (そなえもの)があります。



写真HJ: 社殿の東側面です。



写真HK: 東側面の下部です。



写真HL: 屋根には千木 (ちぎ)や鰹木 (かつおぎ)はありません。 山之坊神社です。



写真HM: 社殿の下部です。



写真HN: 社殿の近くです。



写真HO:  石塔があります。



写真HP:  石塔に「奉寄進・・・」と彫 (ほ)ってあります。



写真HQ: もう1つの石塔です。



写真HR: 石塔に「宝暦 (江戸時代中期、1751年〜1764年)11年10月」と彫 (ほ)ってあります。



写真HS: 社殿の西側面です。



写真HT: 西側面の下部です。



写真HU: 南を見たものです。



写真HV: 自然石の手水鉢 (ちょうずばち)があります。 水道もあります。 山之坊神社です。



写真HW: 元のところに戻 (もど)ります。 奥は山之坊地区集会所です。 北を見たものです。



写真HX: 西を見たものです。 この道を戻 (もど)ります。



写真HY: 風景です。



写真HZ: 南西を見たものです。 水田があります。 民家もあります。



写真IA: 南を見たものです。 杉の木もあります。 農業用ビニールハウスも見えます。



写真IB: 農業用ビニールハウスがあります。



写真IC: 南東を見たものです。



写真ID: 近くです。



写真IE: この道の奥に山之坊神社があります。



写真IF: この建物の裏 (北)に山之坊神社があります。 さらに奥は山 (新田原台地)になっています。



写真IG: 田んぼの稲にそろそろ稲穂が出てきていました。



写真IH: ここの稲は穂 (ほ)が出ています。



写真II: 黄コスモスの花が咲いていました。



写真IJ: 新田八幡神社の二の鳥居 (とりい)が見えるところに戻 (もど)ってきました。 西を見たものです。



写真IK: 南を見たものです。 新田八幡神社の一の鳥居 (とりい)が見えてきました。



写真IL: この田んぼは早期水稲 (そうきすいとう)でもう稲穂が垂 (た)れていました。



写真IM: 色を付けたペットボトルの風車がありました。



写真IN: 南を見たものです。 一の鳥居 (とりい)です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)